小倉紀蔵「入門朱子学と陽明学」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「朱子学的世界観を理解するために、鬼神ほど重要なものはないように思える。鬼神が朱子学体系の中で重要である理由は、『中庸』第16章の次の一節である。」


「視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。」


「(訓読)鬼神は之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず。」

「(訳)これを見れども見えず、これを聴けども聞こえず、すべての物の体となってあますところがありえない。」


「極端にいえば、この世界観が体得できるか否かが、朱子学を理解できるか否かに直結している。そう、朱子学的社会とは、鬼神が充満し、『物に体する』時空間なのである。『物に体する』というのは、その物をその物たらしめている根本となっているという意味である。鬼神は民衆の世界においては、日本語の『おにがみ』のように、具体的なお化けや幽霊、もののけなどを意味する。朝鮮シャーマニズムにおいても、基本は同様である。

 ところが朱子学ではこれを、自然哲学的に解釈するのである。つまり鬼神は具体的な鬼やお化けではなく『二気(陰陽)の良能』なのだ。気が帯びている陰・陽の絶妙な作用によって鬼・神という状態がわかれる。朱子学の鬼神論は、基本的にエネルギーの観念で成り立っている。『神』や『鬼』という実体があるわけではない。気の霊的なエネルギーの様態に、『神』『鬼』という名をつけているだけなのである。気が屈するのが鬼、伸びるものが神である。」


 まずは、総論部分。著者独自の観念『宇宙快感』と「宇宙認識」のくだり