田中康二「本居宣長」その10 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「研究者には誰しもピークというものがある。精力的に仕事ができる時期はおのずと限られている。幸いにもその時期に邪魔が入らず、健康にも恵まれ、仕事に集中できれば、自らの学問を全うすることができる。宣長の場合、青年期から壮年期を経て老年期に至るまで、コンスタントに旺盛な仕事量をこなしているので、いったいどの時期がピークなのか、はっきり言って不明である。だが、研究成果の公刊という点でいえば、間違いなく六十歳代がピークであった。というのも、宣長の生前に刊行された三十編余りの著作のうち、実に半数が六十歳代のものだからである。」


「寛政七年(1795)六月には、『玉勝間』初篇が刊行された。それが古道学のみならず、歌学にも及ぶ百科全書的な随筆であった。内容が禁忌に触れたために差し替えになった条項があることはあまり知られていない。また儒教の祖である周公旦をあたかも『漢意』の権化とみなし、悪人呼ばわりしているところが、儒教を奉じる徳川幕府の政策に抵触するゆえ自主規制をしたところもあるという。」


「もう一つは『うひ山ぶみ』の執筆である。完成度の高い入門書である。その締めくくりに次の歌を詠んでいる。」


「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」


「歌意は、初学者のために書いてきたけれども、ほんの低い裾野を歩く道しるべ程度のものかもしれないが、どうだろうか、といったところである。この控えめな自己評価に反して『うひ山ぶみ』は学問研究に関する極意を記したものといってよい。初学者入門書とはいえ、学問の完成期の掉尾にふさわしい書物の執筆であった。」


 田中康二「本居宣長」完 小林秀雄の「本居宣長」へうつる。