田中康二「本居宣長」その8 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「孔子は四十にして迷わずと言ったという。聖人君子は迷うことがないのであろう。普通はますます迷い道にはまるものだ。四十歳になったのだから、そろそろ迷わないような生き方をしたいものだ、というのが凡人の受けとり方である。自信と開き直りとがないまぜになった年代と言ってよかろう。孔子の言葉のせいかどうかは知らないが、程度の差こそあれ、人は四十歳になると自らの来し方を振り返るものである。振り返って、これからの行く末を考える。宣長の四十歳代はまさに自省の歳月であった。」


「宣長は『古事記伝』を執筆を始めてしばらくして、古事記に隠された古道論の本質に論究するようになる。そうして『直毘霊(なほびのみたま)』を書き上げた。明和8年(1771)10月9日、宣長42歳のことである。『古事記伝』一の巻におかれた総論である。直霊とは、古事記上巻で伊邪那岐命が伊邪那美命に会いに行って、黄泉の国から命からがら逃げ帰る際に、阿波岐原で禊して汚れを祓うときに誕生した神、神直毘神・大直毘神の精神の意である。漢籍の毒にあたられて日本の神の道を見失ったしまった者を正しく導くための精神という意味に転用している。」


「安永7年(1778)2月30日、宣長は前年から執筆していた『馭戎概言(ギョウジュウガイゲン)』を仕上げた。49歳の時のことである。日本が『戎』(韓国や中国)を『馭』(制御)するべきであると慨嘆しつつ主張するという意味である。『直毘霊』を執筆して日本に伝わる道を通時的に掌握しようとした宣長は、当然のことながら古来の外交関係にも食指を動かした。日本外交史の研究書である。この書物は、幕末には攘夷派の愛読書となったり、太平洋戦争中は蓮田善明が中国侵略の先見性を絶賛したりといったように、危機の時代に愛国者たちによって大きく取り上げられた。戦後には、たとえば加藤周一などは粗雑で狂信的なナショナリズムの代表とみなしている。他の著作と比較すれば異色の思想史的叙述といってよい。高度な実証性を担保しつつも、圧倒的な皇国中心主義に貫かれているのである。もちろん、現代の目から見れば偏狭な自国中心主義と言わざるを得ないところも多分にある。」


 本居宣長もあと1,2回か。