野口武彦「荻生徂徠」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「荻生徂徠、名は双松(なべまつ)、通称惣右衛門、字は茂卿、徂徠はその号であり、またその学塾を蘐園と称した。寛文6年(1666)、江戸二番町に生まれる。父方庵は徳川綱吉の仕える医師だったが、延宝7年(1679)咎を得て上総国に流され、14歳の徂徠も江戸を去る。その後赦免になる元禄5年(1692)までの13年間を房総半島中部の僻地で過ごしたのである。江戸に戻ったとき、徂徠は27歳の青年になっていた。芝増上寺前での舌耕生活はこうして始まった。」


「元禄9年(1696)、31歳の徂徠は時の権臣柳沢吉保に儒者として召し抱えられる。最初は15人扶持だったが、しだいに頭角をあらわすとともに俸禄も増加し、ついには五百石にいたった。だが徂徠の学者としての本領はそうした経歴にはない。始めに思想史の分水嶺をなしたといったのは、徂徠がもと朱子学から出発しながら創見に満ちた古文辞学をうちたて、時代の思考方法を一変させたからである。その過程には曲折があった。宝永元年(1704)にこと、徂徠は、当時京都にあった古義学を興し、朱子学批判の学説を主唱していた伊藤仁斎に共鳴するところがあり、敬愛の念から書簡を送ったが相手から返事なく、その軋轢が徂徠に朱子学の立場からする猛烈な仁斎攻撃の書『蘐園随筆』を書かせることになった。この書物の刊行は正徳4年(1714)である。しかるにその後数年を出ずして享保2年(1717)まず『弁道』が成り、続いて『弁明』『学則』『論語徴』などの主著ができあがる。いずれも徂徠学をして徂徠学たらしめる不朽の著作である。そしてこの徂徠学たるや、かつて非難を加えた仁斎学以上に徹底した反・朱子学の思想であった。時あたかも八代将軍吉宗の治世であり、享保改革に着手したいた吉宗は政策の具申を徂徠に求めた。政論書として『太平策』ならびに『政談』が執筆されたゆえんである。享保13年(1728)1月、荻生徂徠は63歳で世を去った。」


 徂徠の生涯がコンパクトにまとまっていた。