「イエス・キリスト」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「初期キリスト教徒にとっての問題は、ヨハネとイエスの接触時の基本的な事実として、少なくとも最初の段階では、ヨハネの方が上位の人物であることを暗黙のうちに容認しなくてはならないということだった。マルコが言うように、ヨハネによる洗礼が罪の赦しのためであったとすれば、イエスがそれを受けたことは、彼の罪がヨハネによって浄化される必要があったことを示唆する。ヨハネによる洗礼が、ヨセフスがいうような入会儀式の一種であったとすれば、イエスはヨハネの他の弟子の一人と同じように、彼の運動の参加を認めてもらおうとしたことになるのは確かだ。両者がそれぞれ処刑されてからずっと後になって、ヨハネに信奉者がイエス運動に吸収されるのを拒否したのはまさにそのためだった。彼らは自分たちの主人ヨハネの方がイエスよりも偉大だと主張していたからである。」


「『洗礼者ヨハネ』の歴史上の人物としての重要性と、イエスの宣教活動開始に果たした役割は福音書記者たちに厄介なジレンマを生み出した。ヨハネは人気があり、たいへん尊敬され、いたるところで認められていた祭司であり、預言者だった。彼の名声があまりにも大きかったため、無視することはできず、彼がイエスに洗礼を授けたこともよく知られていて隠すわけにはいかない。その物語はどうしても入れなくてはならないが、それは、改ざんして、差し支えのない話にする必要があった。イエスが上位で、ヨハネが下位に、役割を逆転させればいいわけだ。そういうわけで、ヨハネの役割はだんだん退行していって、最初に書かれた『マルコによる福音書』ではヨハネは預言者で、イエスの教師として紹介されているが、最後に書かれた『ヨハネによる福音書』では、この『洗礼者』はイエスの神性を認める以外には何の役割もはたしていないように描かれている。」


 中川健一の「日本人に贈る聖書ものがたり」を読んでいたときも、洗礼者ヨハネとイエスの関係がよくわからなかった。