「漱石とその時代」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「鴎外森林太郎の登場に衝撃を受けたという点では、正岡(子規)も同様であったが、彼の場合には明らかに順境にある新帰朝者への羨望と反感がまじっていた。彼が鴎外の作をほめた金之助を許せなかったのは、そこに自分に対する侮辱を感じとったからである。ある意味では正岡こそが鴎外の道を歩むはずであった。彼は笈を負うて上京し、大学に入り、叔父加藤恒忠にように選ばれて洋行し、帰朝して「社会の上流」への道を驀進しているはずであった。しかし、現実には、正岡は学業半ばで病におかされ、『功名心』実現のために転進を余儀なくされた創作では、いまだに文名をあげられずにいる。このような憤懣に加えて、何よりも正岡は鴎外の旧さに焦立ったにちがいない。わざわざ西洋に出かけて行って、『舞姫』や『文づかひ』のような古めかしいものを持ち帰ってくるとはなにごとか。エリートの任務は、取り残された者たちのために最新の文芸を、(坪内)逍遥の『小説改良』をさらに徹底的に推進する理論をもたらすことにこそあるのではないか。」


「このような反発が『日本好き』というかたちをとって表現され、さらに屈折して『西洋に心酔』している金之助への怒りに爆発しているのは、『閉ざされた心情』とでもいうべき心的傾向に特有の心理のメカニズムである。一方には『近代』を求める過激な心情があり、他方にはあらゆる外来の要素に対する閉鎖的な拒否があって、このふたつは正岡の中でわかちがたく結合していた。これほど彼に敵視されていた鴎外が、やがてハルトマンの美学をふりかざして逍遥の没理想論を論駁しはじめたのは皮肉なまわりあわせというほかない。正岡は明治23年秋、文科大学入学直後に、在仏の叔父加藤からハルトマンの『美学』第2巻を贈られたが、ドイツ語がよく読めないので中途で投げ出してしまっていた。正岡の主張する『日本』は金之助の『日本』とは対照的なもの、むしろ正当化すべき概念であって回復すべき感受性ではなかった。」


 それぞれの人間模様