「漱石とその時代」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「人間というものは考え直すと妙なもので、まじめになって勉強すれば、今まで少しも分からなかったものもはっきり分かるようになる。前にはできなかった数学なども非常に出来る様になって、ある日親睦会の席上で誰は何科へ行くのだろう誰は何科へ行くだろうと投票したときに、僕は理科へ行く者として投票された位であった。元来僕は訥弁で自分の思っていることが云えない性質だから、英語など訳しても分かって居乍らそれを云うことが出来ない。けれども考えて見ると分かって居ることが云えないと云う訳はないのだから、何でも思い切って云うに限ると決心して、その後は拙くても構わずどしどし云う様にすると、今迄教場などで云えなかったことがずんずん云うことが出来る。こんな風に落第を機としていろんな改革をした勉強したのであるが、僕の一身にとってこの落第は非常に薬になったように思われる。もしその時落第せず、唯誤魔化して許り通って来たら今頃どんな者になって居たか知れないと思う(『落第』)。」


「しかし、落第はまたそれ以後の金之助をいささか意志的に生きさせるように作用しすぎたかもしれない。あまりにも意志的に生きるとは、『生』の原質から自分を遮断しつつ生きるということである。あるいは自分と時代との関係を、一種抽象的に規定しまうことである。金之助において、この意志的な生き方が、江東義塾でアルバイト教師をはじめてから20年間の彼の生活を支えた『教師』という職業と密接に結びついていたという事実は、あるいは記憶にとどめておいていいことかもしれない。さらにこの生き方に、ある断念からの寂寥感がひそんでいることも、注目すべきことかもしれない。」


 漱石の生き方