江藤淳「漱石とその時代」第一部から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「千枝が武家奉公をした女だったことを、『身に品位を修め、起居の正しく辞儀の作法を弁え、胆力をして強からしめ、堪忍・耐任を知る』べく努めた女だったことを、思いおこす必要があるかもしれない。つまり江戸時代の価値基準を定めていたのは武家であり、御殿奉公の習慣が示す通り町人もまた進んでその価値観を受け入れようとしたのである。名主という地方行政官吏が、町人でありながら幕府を中心とする世界像の末端をになっていたとすれば、名主の妻になるような女性は、武家奉公をすることによってそこに内在する価値観をみにつけ、内側からこの世界像を支えた、これが『公』と『私』の、あるいは『制度』と『習慣』の両面から形作られた旧幕府時代の教育体系である。その根本にあったのが儒学、ことに朱子学の体系だったことはいうもまでもない。それが思弁的というよりは実践的・具体的に、日常茶飯の生活感覚になっていたのが近代の学校教育とのちがいである。」


「金之助はひょっとすると兄弟のなかで母の千枝に一番よく似ていたのかもしれない。それは彼が母に似て聡明だからというだけではない。いわば千枝が、やがて金之助に受けつがれるべき世界像と価値観、つまり自分を超えたものの存在を感じるとる感覚と自己抑制の倫理とを体現しているような女性だったからである。のちに金之助は、当時の彼の階層に属する子弟の必須の教養として漢籍に親しみ、儒学の世界像と「公」とを私」の上に置く価値観とを学んだ。しかしもし彼が、この価値観を内側から支える感覚にめぐまれていなければ、彼はそれを生き、かつその不在によって傷つくことはなかったはずである。その感覚を彼は母からゆずられたのである。」


 千枝とは、漱石の母、金之助とは、漱石のことである。