「モーツァルト」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「エッケルマンによれば、ゲーテは、モーツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。いつか誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言ってしまえば、人間どもをからかう為に、悪魔が証明した音楽だというのである。ゲーテは決して冗談を言うつもりはなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン『ゲーテとの対話』)」


「スタンダアルが、モーツァルトの最初の心酔者、理解者の一人であったという事は、なかなか興味あることだと思う。スタンダアルがモーツァルトに関して書きのこした処は、『ハイドン・モーツァルト・メタスタシオ伝』だけであり、それも剽窃問題で喧しい本で、スタンダリアンが納得する作者の真筆という事になると、ほんの僅かばかりの雑然とした印象記になってしまうのであるが、この走り書きめいた短文の中には、『全イタリイの世論に抗する』余人の追従を許さぬ彼の洞察がばら撒かれている。結末は、とってつけた様な奇妙な文句で終わっている。『哲学上の観点から考えれば、モーツァルトには、単に至上の作品の作者というよりも、さらに驚くべきものがある。偶然が、これほどまでに、天才を言わば裸形にしてみせた事はなかった。このかつてはモーツァルトと名付けられ、今日ではイタリイ人が怪物的天才と呼んでいる驚くべき結合において、肉体の占める分量は、能うる限り少なかった』」


 熟成には時間が必要かもしれない。