今日出海「小林と私」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「二人でパリに行っていた時分、よくオペラに近いサントラというポルト酒専門の酒場へ食前酒を飲みに行ったが、彼の飲むポルト酒は決まっていた。それがあるとき、味が違うし、まずいと怒りだしたことがあった。給仕人は70くらいの老人で、ここのポルト酒はパリ一なのに、まずいとは何ごとかと、逆ねじを食わしてきたが、やはり先方の間違いで、老給仕人は恐縮し、『なんという通人(コネスール)だろう』と小林のことを感嘆していた。それから数年後私が一人でサントラを訪れると、この給仕人はまだ働いていたが、私を見ると、『お前の友達の通人はどうしているか』と聞いていた。異国の給仕人も彼の舌については舌をまいていた。」


「モーツァルトを書いていた時、蓄音機のレコードがすり切れるほど、朝に夕に晩に聞き通したものだ。私の書斎のウィゼワの『モーツァルト伝』をもって行ったかと思うと返してきたが、500ページ上下二巻のフランス語本をたちまちのうちに読了する読書力と集中力は当時からいまだ衰えていないようだ。」


「小林は世間では頭がいい人ということになっている。が、頭のいいといわれる人物はたくさんいる。記憶力のすぐれた人、数学的な頭の鋭い人、だが彼のよさは全く独自で、考えることの底が深く、誰も同じものを見ているのに彼は特別読みが深い。真偽の鑑別も鋭く、その対象となるものは目に触れ、耳に聞くものすべてである。」


 「考えるヒント」のあとがき