「概略を読む」その7 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「一つは神学上の予定説です。造物主が初めから、ある人は永遠に救われていると定め、ある人は永遠に地獄行きを定められているという恐るべき教説です。この考え方は、さかのぼればアウグスティヌスにありますが、プロテスタントでこれをハッキリ打出したのはご承知のようにJ・カルヴィンです。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、カルヴィンの予定説が、プロテスタントの倫理にどういう役割を果たし、ひいてはそれが資本主義の精神とどういう共鳴現象をおこしたか、を分析しています。この予定説では、造物主は万能ですから、創造の瞬間にすでにすべてのことを予定しているわけですね。だから、ある意味では、絶対的な宿命論になる。帰結が必ずそうだというのではないけれども、ただ色調はどうしてもそうです。」


「もう一つが、ヨーロッパの形而上学における自由意志説です。人間の自由意志のドクマから出発する。カントまでの近代の哲学は多かれ少なかれ、そうです。哲学だけでなく、近代の個人主義の考え方の中には、多かれ少なかれこの自由意志説があるわけです。刑法をご覧になってもお分かりのように、例えば、どうして心神喪失者が人を殺しても無罪になるのか、といえば、それは人間の自由意志というものを行為の前提にしているからです。心神喪失者には理性による選択の自由が欠けている、したがって、責任を問うことができない、ということです。被害者の立場からしたら、ずいぶんひどい話だということになりますが、それはやはり、個人の自由意志というものが近代刑法の考え方の基礎になっているからです。」


「自由意志というのは、そう意味で近代の個人主義の基礎であり、哲学をそれを基礎づけてきたわけです。この自由意志説と神学的な予定説、その両方に対する批判を、バックルはその著の冒頭で詳細に行っている。」


 バックルの『イギリス文明史』は、福澤が『文明論乃概略』を書く際に下敷きにしたものだという。

予定説のくだりは、小室直樹の『日本人のための憲法原論』を思い出させた。