「丸山眞男」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「丸山の見るところ、二十世紀の世界では『典型的なデモクラシー国家においても大衆は巨大な宣伝および情報機関の氾濫によって無意識のうちにある一定のものの考え方の規制を受けている』。その点では、リベラル・デモクラシーを標榜する国家も、ファシズムと共産主義の『全体主義国家』も、程度の違いにすぎないのである。しかも、人々が情報の網の中にまきこまれ、知らず知らずのうちに、ある思想に染めあげられるのは、政府による巧みな宣伝のせいだけではない。のちに『政治学事典』に丸山が書いた項目『政治的無関心』によれば、マスメディアや、映画・演劇・スポーツといった大衆娯楽もまた、人々の関心を非政治的な事柄にむけることで、結果として『政治化』のはたらきを支えている。そこではたとえば、政治家の資質や業績よりも、その私生活での言動が注目を集め、重要なニュースが断片に切り刻まれ、娯楽情報とまぜこぜにして消費されてしまう。このような、のちの呼びかたで言えば情報空間に生きていくうちに、人々は『自主的判断』の能力を失い、自分で考えた結果だと思っても、実はメディアによって刷り込まれた見解をなぞっているだけということになる。―こうした大衆社会の像は、ウォルター・リップマン『世論』や、チャールズ・E・メリアム『政治権力』といった、アメリカ政治学の古典から学び、構成したものであるが、丸山ののちの論者による管理社会論や、インターネット社会論へと引き継がれていく」


『現代において、政治機構は複雑化し、国際世界の動向が人々の生活にじかに影響を及ぼすようになったことも重なって、だれが決定を行っているのか、全く見えなくなった。そこで人々は、自分の手の及ばないところで政策が決まっていると感じ、無力感にとらわれるようになる。これが無関心の内実であり、その『諦観と絶望』は政治に対する『焦燥と内憤』と背中あわせになっている。そこに『政治的指導者』が目をつけ、メディア上での宣伝を通じて、反対勢力や、特定の外国に対する憎悪をかきたてると、その強烈な刺激に人々は興奮し、『自我の放棄による権威への盲目的な帰依』にむかってゆく。―ドイツも日本も含めて、かつて『ファシズム独裁』が登場した心理基盤を、丸山はこのように説明した。今から見れば、1950年代よりも、21世紀初頭の政治の現実に、ぴったりくるような指摘である。」


 誰が決定を行っているのかのくだりはウォルフレンの指摘にもあったし、自我の放棄による権威への盲目的な帰依は、尖閣列島の購入をぶち上げた石原の手法を思い起こす。