「概略を読む」その6 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「どの国どの時代でも、人民の中には非常な愚かな人間や非常に賢い人間というのはたいへん少ない。世の中に多くいるのは、賢い者と愚かな者の中間にあって、罪もなく功績もなしに世間にあわせて一生を送る人々だ。これらが世間の通常の人々なのだ。世間というのは、こういった世間の普通の人々の間に生まれる議論であって、これこそが今の時代を映し出すものなのだ。こういった『世間』は、過去を反省することもなく、また将来を予見するでもなしに、動いて止まることがない。しかし、世間ではこういう人間が多い。世論を物事の基準にし、それから外れることがあれば、異端だとか妄説だとして、すべての議論をこの世論の枠内に押し込めようとする。(略)試しに見てみよ。古来文明の進歩というのは、最初はすべて異端や妄説から始まったのだ。アダム・スミスが始めて経済について論じたとき、世の中の人はみなこれを妄言とみなした。ガリレオが地動説を唱えたときは、異端の罪に問われた。しかし、異説もまた長年争論を重ねる中で、世間の普通の民衆も、知らず知らずのうちに智者に教育され、その説に賛同するようになり、今日の文明においては、学校の児童であっても経済学や地動説について怪しむ者はいなくなった。」


 斉藤による「文明論之概略」(現代訳)の抜粋。これに対する丸山の解説は以下のとおり。


「この世に多い、平均的知性の持ち主、平凡な人物、それは個人のレヴェルではいいけれども、それが一番数が多いので、集まると非常な力をもって少数意見を圧迫する。多数決によるいわゆる『多数の暴政』の危険性を指摘しているのですね。当時の日本は、まだ議会政治以前ですけれども、幕末の混乱を体験した福澤は気質から言っても、このミルの指摘と共鳴現象を起したと思うのです。『こういった世間』云々、これは『現在主義』的傾向の指摘でもあります。過去を省みることもなく、未来を見通すこともなく、今の瞬間ばかり見ている。ですから、現在の状況の絶対化になってしまう。ここのところは、これは『世論』を代表するマス・コミの傾向として今日にも当てはまります。『悲しむべき一事』として述べられていますね。(略)『試しに見よ』以下の文で、古来、文明の進歩は少数者の異端妄説から生まれているではないか、という具体例が続くわけです。天下の多数者の意見が歴史を進めたのではなく、むしろマイノリティが進めたことが多い。その時代においては異端妄説として排斥されたものが、やがて広く認められるようになった。その例として、アダム・スミスとガリレオが挙げられるわけです。」


 丸山は言う。「これは文明論之概略をテキストとして、その全文に即して章を追って解説を試みたものである。原点を必ず目の前において読んでいただきたい。できるならば黙読よりも音読していただきたい。」と。