「概略を読む」その5 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「白柳秀湖の『歴史と人間』にこんなふうに書いてある。『福澤諭吉は、いわゆる伝記の上からは、荻生徂徠とぜんぜん無関係の人物である。しかし、その哲学に於いても、史学に於いても、両者の間は、目に見えぬ太い、不朽の思想的連鎖で、しっかりと結びつけられている。その経験的な、実証的な、功利的な哲学のにほひ、その経済的な、社会的な、演繹的な史学の色調、両者はまさしく日本の思想家に毅然として相呼応する高峰である。誰やらがプラトーンに精通しカントに暁達しさえすれば、その間の哲学者には学ぶ必要がないというようなことをいったのを記憶している。徳川氏以降の日本思想史は徂徠に精通し、福澤に暁達すれば、その間はたしかに飛び越してもさしつかえない。少なくとも日本生粋の思想史を学ぼうとするならばそれでたくさんだ。』すくなくとも徂徠と福澤に精通すれば、その間はとばしてもよい、とは思い切ったことを言ったものです。


「オリジナリティという場合に、およそ思想史を、たとえばヨーロッパの思想史にしても本当に勉強した人ならばすぐ分かるはずですが、ヨーロッパの場合をとっても、全く新奇なものが不意に出現するものでは決してありません。ある人は、ヨーロッパの思想史は古典古代のギリシャ思想を主題とする変奏曲だといっているくらいです。結局、思想史というのはすべて、従来の思想を読み替え、読み替えしてゆく歴史なのです。昔の思想を読んで読んで読みぬいて、それを新しく解釈したり、新しい照明をあてていく。そういうことの歴史に過ぎない。その意味で、本当の独創というのは何もかも真新しく始めるということではなく、むしろ珍奇な思いつきということではないのです。」


「君子というものは専門家であってはいけないのです。有名なウェーバーが引用している、論語の『君子は器ならず』。一つの専門のエキスパートは君子ではない。器というのは君子が使うものであり、専門家というのは君子が使うものなのです。君子たる士大夫は、あらゆる領域のことを適当に少しずつ知っているが、しかしいわゆる専門家ではなく、それらを治国平天下のために使うものです。科挙試験とか古典の試験をするというのはそういう意味をもっている。J・Sミルが真に教養ある人間とは、すべてについて何事かを知り、何事かについてはすべてを知る人間だ、といっているのを、これに似た考え方です。」


 いわゆる見識というもの