「概略を読む」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「私は昭和12年に助手になり、日本の思想史を専攻することになりました。思想史というと、明治以後は現代史ですから、特別に訓練をしなくても資料も読めますし、書誌学的な勉強も必要としない。少なくとも学問的分業の上からいって日本の思想史の研究となるとどうしても明治時代以前にさかのぼる必要があります。しかも政治思想ということになると当然のことですが、まず儒教の勉強からはじめなければならない。」


「しばらくは手当たり次第に、時代順など無視して原史料に当たって読み、四書のような中国古典の勉強をし、書誌学的な勉強のために文学部の講義にも出ました。ところが江戸の儒者の中で断然光って見えたのが荻生徂徠なのです。

まず徂徠を一生懸命読んで、そこから時代的に徂徠の前へ、そしてその後へと広げて考えていきました。」


「そこで福澤にどういうわけで関心を持ったかということですが、荻生徂徠の場合は今申したように割合はっきりしているのだけれど、福澤について何がきっかけで読んだのか、いま考えても、よく思い出せないのです。昭和12年ごろ、羽仁五郎さんの『白石・諭吉』が岩波書店から大教育家文庫の一冊として出ました。あれは、本文がほとんど引用文で占められていて、いわば白石と諭吉の文章をかりて当時の時代に抵抗したものですが、それが一つのきっかけだったのか、はっきりしません。」


「ともかく福澤を読み始めると、猛烈に面白くてたまらない。面白いというより、痛快痛快という感じです。とくに『学問のすすめ』と、この『文明論之概略』は、一行一行がまさに私の生きている時代への痛烈な批判のように読めて、痛快の連続でした。ともかく、少なくとも戦争が終わるときまでに、日本の思想家の中で自分なりに本当によく勉強したなあと思えるのは、先ほどの荻生徂徠とこの福澤諭吉だったというわけです。」


 小林秀雄も、荻生徂徠について『考えるヒント』の中で、福澤諭吉については『福澤諭吉』という題で評論をしている。


 こういう話は面白い。