「概略を読む」その2 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「古典離れの背景には二つの要素の複合が推察されます。第一は、客観的な基準とか確立された形式というものが手応えのある実在感を喪失した、という問題。第二は、新刊・新品・新型を絶えず追いかけないと気が済まず、そうしないと時代遅れになるという不安感です。こういう精神態度には、長い歴史的、文化的背景があるように思えるのです。」


「古典離れの二契機のうち、『古』離れ―つまり最新流行主義―もまた長い由来があります。古代以来、日本が『先進国』―明治以前は中国、それ以後は欧米諸国―に追いつき追い越すために、時代の先端を行く文化や制度を吸収してきた歴史的習性に根ざしていて、『今時の若いもの』どころか、戦後に限った現象ではありません。」


「いや古典離れはそんな長い由来に根ざしたものではない。現にわれわれの時代はもっと東西の古典(『若きヴェルテルの悩み』とか『ゲーテとの対話』など)になじんだものだ、という異論が、戦前、戦中派から出されることが予想されます。しかし、問題はむしろここにあります。果たしてゲーテがどこまでその後こういう人々の身についた栄養分になっているでしょうか。青年時代の古典の読書が、たんなる『なつメロ』でなし、その人にとって生きる知恵として蓄積されているでしょうか」


「ヤング層の間の古典離れが著しいとすれば、そこにはやはり現在の環境が作用しているでしょう。受験体制が古典離れを促すのは、たんに受験勉強に追いまくられて古典など読むゆとりがない、といった表面的な意味にとどまりません。かえって、なまじ国語や外国語の教科書の中に古典がこま切れにされて入っているために、うとましい教科書からの解放が、同時に古典からのさよならになる、という皮肉が見られます。」


「競争のヴォルテージは、必ずしも受験の領域だけだなく、出世競争、地位競争、有名人競争など、色々なジャンルで高まる一方です。こうした競争に伴う自己顕示の欲求は、どうしてもものに対面する心がけよりは、ひととの対抗を不断に意識に上がらせる作用をしまう。『隣のクルマが小さく見えます』というコマーシャルに象徴されるライヴァル意識の日常化は、それだけ、古典に直接向きあって、独りで古典と対話する精神を縁遠いものにするのです。」


 『概略を読む』の序文『古典からどう学ぶか』からの抜粋