丸山真男「文明論之概略を読む」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「福沢の文明論之概略、これほど戦前から何回と数えきれないほど繰り返し愛読し、近代日本の政治と社会を考察するうえでの精神的な糧となったような、日本人による著作はなかった。」


「かつて服部之総が『主体的に言ってみて福沢惚れによって福沢の真実には到底到達できない』と喝破したことがある。善い哉、言や。服部の言葉はもう少し一般化すれば、M・ウェーバーのあの著名な、社会科学的認識の客観性と価値判断、の問題に行き当るだろう。私は彼の言葉には一理も二理もある、と思う。けれどもはたしてその反対のことはいえないだろうか。惚れた恋人には『あばたもえくぼ』に映る危険は確かにある。しかし、とことんまで惚れてみてはじめてみえてくる恋人の真実ーつまり、電車の反対側の席に座っている美人をみているだけの目には、況や初めから超越的な批判のまなざしで判断するものには、ついに到達できない真実ーというものがあるのではなかろうか。そうでなければ、伊藤仁斎の『論語古義』も、荻生徂徠の『論語徴』も、こうした儒者がぞっこん孔子に惚れているかぎり、とうてい論語の真実に達しられないことになってしまうだろう。そして、とことんまで惚れてはじめて見えてきた対象の真実は、一時ほどの熱がたとえ醒めた後でも、持続的な刻印として当人と頭脳の胸奥に残るものである。少なくとも思想書については私はこう信じている。」


 丸山は、福沢の文明論之概略の原典を引きながら、私見を述べている。原典の部分については、斉藤孝の現代語訳を参考にする。