福澤諭吉「文明論之概略」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「第三段階。自然界の事物を法則として捕らえる一方で、その世界の中で、自ら積極的に活動し、人間の気風としては活発で古い習慣にとらわれず、自分で自分を支配して他人の恩恵や権威に頼らない。自身で徳を修め、知性を発達させ、過去をむやみに持ち上げず現状にも満足しない。小さなところで満足せず、将来の大きな成果を目指して、進むことはあっても退くことはなく、達成することがあってもそこに止まることはない。学問は虚学ではなく様々な発見発明の基礎になっており、商工業は日に日に盛んになってますます幸福の源となっている。既に知力を用いながらも、後世に更なる発達を期するところがある。これが今の『文明』というものだ。野蛮や半開の状態から、はるかに進んでいるといえる。」


「では、『文明の精神』とはなにか。これは人民の『気風』である。この気風は、売り買いできるものでもないし、製造できるものでもない。一国の人民の間にいきわたって国中に事跡にあらわれるものであるが、目に見えるものではないので、それがどこに存在するのかを知ることはたいへん難しい。もし、学者が世界の歴史を見て、アジアとヨーロッパの二者を比較してみたとする。地理や産物、政令や法律、学問の水準、宗教の違いなどは別にして、ほかにこの両者が違っている原因を求めるならば、必ず一種の無形のものがあることを発見するだろう。」


「これを言葉で表現するのは、たいへん難しい。これを養えば成長して地球上のあらゆるものを包み込む。これを抑圧すれば、萎縮してしまったその影を見ることもなくなる。進歩退歩し、栄え衰えて常に動いている。このように玄妙なものではあるが、現にアジアとヨーロッパの違いを見れば、その存在は明らかである。今仮にそれを『一国の気風』と名づけてみたが、時代という観点からいえば『時勢』であり、人という観点からいえば『人心』であり、国という観点からいえば『国俗』、あるいは『国論』という。いわゆる『文明の精神』とはこれのことなのだ。』


 斉藤孝の現代語訳はたいへんわかりやすい文章になっている。