「考えるヒント」その5 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「彼等は、皆、読書の達人であった。素行や仁斎の古学と言い、徂徠の古文辞学と言い、近代的な学問の方法というようなものでは、決してなかった。彼等は、ただ、ひたすら言を学んで、わが心を問うたのであり、紙背に徹する眼光を、いかにして得ようか、と肝胆を砕いたのである。国学者の物学びでも同じことだ。例えば、宣長の学問には、すでに近代的意味での文献学的方法があったというようなことを言いたがる。余計な世話を焼くものである。そんな空世辞を言ったところで何も得るところはない。得られるところは、ただ宣長の思想の幼稚と矛盾とだけである。宣長は、自身も言うように、ただ物を『おほらかに見た』ので、客観的にも実証的にも見たのではない。おおらかにみるとはいう心の眼を開いてくれたのは契沖の書物であったと彼は言う。」


「当時の学問とは、学というよりも芸に似ていた。彼らの思想獲得の経緯には、団十郎や藤十郎が、ただ型に精通し、その極まるところで型を破って、抜群の技を得たのと同じ趣がある。彼らの学問は、彼らの渾身の技であった。この特色に着目せず、彼らの思想を、その理論的構造の面から解しようとしても無駄である。思想史を、社会の理論的構造にぴったり合った意匠のように解する悪習に慣れれば、思想史とは、単なる社会の衣替えに見えて来るだろう。今時、そんな着物を着られるか、で済ますことにもなるだろう。」


 ついつい読んでしまう小林秀雄