「アダム・スミスの誤算」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「スミスは、いう。富裕な人々に感嘆し、貧乏な人々を軽蔑する性向は、確かに諸身分の区別と社会の秩序を打ち立てる基礎であるが、また同時にそれが、われわれの道徳感情に腐敗をもたらすのだと。確かに人類の大部分は富と上流の感嘆者であり崇拝者である。しかし、『知恵と徳』は『富と上流』とは違っているのだ。実際、『知恵と徳』は必ずしも『富と上流』に宿るとは限らないではないか。そして、本当に尊敬に値するのは、『知恵と徳』である。富裕な人、上流の人のもつ『高慢と虚栄』よりも、尊敬に値する徳をもった人の『確固とした値打ち』のほうが、本当は、はるかに多く感嘆されるべきものなのである。」


「ところが、『世間』はしばしば『注意が不十分な観察者』からなっており、誤った評価をする。『世間』では、『知恵と徳の人』ではなく、『富と上流の人』が称賛される。そして、この世間の調子を合わせる多くの人は、富裕な人や上流の人を模倣し、流行を追うことになる。それこそは虚栄の人なのである。」


「人は、実際に誰からも称賛されなくともかまわない。つまり世間の評判などどうでもよい。しかし、世間の評判などとは無関係に『称賛に値すること』はあるのだ。ただ称賛を求めるだけの人は、世間の評判によって報いられたと思うだろう。虚栄の人は、世間の称賛という外面的な事情のみを求めて世間に迎合するだろう。だが、『賞賛を愛好すること』と『賞賛に値することを愛好すること』は別のことなのである。『称賛をえること』ではなく、『称賛に値すること』を求めるものは、決して世間に迎合する必要はない。彼は、世間の非難を一身に受けたとしても、例えば、ただ一人の賢者が彼を認めてくれればそれに満足するだろうし、あるいは、誰もが彼を称賛しなくとも、彼自身の内面の審判者によって認められればそれでよいのである。」


「上流階級では、成功と昇進は無知高慢な上長者たちの気まぐれしだいなのである。個々では『社交界の人々と呼ばれる、あのさしでがましくばかげたしろものの、外面的な品位、とるにたらぬ身だしなみ』こそが感嘆を受けるのだ。そして大衆は、富裕な人々と上流の人々を感嘆し模倣しようとする。だからどちらも同じ穴のムジナだ。虚栄に満ちた上流階級とこれに追従しようとする大衆、これらが『世間の評判』というものの正体である。この不確かの移ろいゆくものの中には、是認の確かな根拠など存在しない。それがあるとすれば『(神の)見えざる目』を内部にもった自己規律以外にないのである。」


アダム・スミスは、こんなことも言っていたのか。