続「学生との対話」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「直覚も分析も使えばいい。ベルグソンの分析というのは極めて鋭いです。直覚したところを分析する。けれど、分析したところは直覚にはならない、とベルグソンは言っているだけです。逆は真ではないと言っているだけです。分析から直覚に行く道はない。でも、直覚から分析に行く道はあるんです。」


「将棋だってそうでしょう。僕らの指している将棋って、分析的なんだよ。プロはパッと直覚するんです。木村義雄八段が書いていたけれど、プロは2時間も考えるでしょう。?あれは手を考えているのではないのです。パッと直覚した手が果たして正しいか、分析しているのです。それで2時間考えて、最初に直覚した手をさす。その時、三つの手があるとします。たぶんこれがいいなと直覚するのですが、その三つをきちんと手を読んで分析しなければいけない。それに2時間かかるんです。」



「クローチェは『どんな歴史でも現代史なのだ』と言っている。現代の人がある史料を通じて過去に生きることができるなら、その人は歴史家と呼べるのです。それに比べて、考古学的歴史というのは、実にみんな空虚なものだ。まあ、みんな空虚とは言わないまでも、一種の学問に過ぎない。」


「昔は、『増鏡』とか『今鏡』とか、歴史のことを鏡といったのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を読んで、自己を発見できないような歴史ではだめです。どんな歴史でもみんな現代史である、ということは、現代のわれわれが歴史をもう一度生きてみるという、そんな経験を指しているのです。それができなければ、歴史は諸君の鏡にはならない。しかし、歴史の中に君の顔を見ることができたら、歴史は君のためになるじゃないか。『古事記』のどこか本当で、どこは嘘だなどと研究しても、それは一種の学問であるけれども、僕の言う歴史、鏡としての歴史ではない。」