「神とゴッドはどう違うか」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「我々が存在のすべてと思っている世界は、実は被造物の世界であって、それとは別にそれらを全てを造った創造主がいる――そういう複眼的存在観をきちんとふまえることは、聖書を理解するためのそもそもの出発点でもある。」


「聖書の中での出来事を読んでいくとき、大前提たる複眼的存在観をきちんと確定してかからないと、その後の理解がみな不安定になる。個々の事件が全体像の中にきちんと位置づけできない状態が続くのである。」


「わが国では、その複眼的存在観を抜きで聖書を読んだ気になって、語る人が多い。そういう『日本型キリスト教』では、ひたすらイエスの愛を持ち出して、愛、愛と唱えている。それより多少視野が広がったとしても、『旧約聖書は律法が支配する時代の書、新約聖書は愛の法則で救われる時代の書』といった類の把握を抜け出せない。それでアリガタヤ、アリガタヤ、とやっているわけである。」


「そうした救済の論理が展開されるべき、そもそものスタートがないのある。宗教は心の満足を得るためのものだから、それで納得の人はそれでいい、という人もいるかもしれない。だが、それでは、世界をリードしている、西洋人の世界観がまったく見えなくなる。指導者の意識構造がわからない。だから、指導してくることの意味がとれない。そのままで国際化の波に洗われ、その中に突入していかざるを得ないのがわが国の今の状況である。」


 1997年の出版された本である。