鹿嶋春平太「神とゴッドはどう違うか」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「戦後日本に流行したサルトルの実存主義哲学の、基本テーゼは、『実存は本質に先行する』でした。ここで実存とは、とにかく実体として存在している、という事実です。そして、本質とは、それが存在するのは何のためか、の答えとみたらいい。本質がわかれば、それにそって生きたらいいことになりますから、どう生きるべきかも明らかになります。」


「サルトルは、すべての人間がおかれている姿は、本質に実存が先行している状態だと明示しました。われわれは、生まれて成長したある日、自分が実存することをまず悟る。そしてそれから、何のために存在しているかを問うていく。この状態で生きていくのが個々の人の姿であることを確認させたわけです。」


「バイブルの視野からすると、話はがらりと変わるのです。すなわち、難しいのは、被造物が自ら被造物の本質を問うからだ。創造主を視野に入れたら、答えは自明となります。何しろ、造る側は、被造物の存在意義を先に決めてから造るのだから、それを問えばいいことになるのです。」


「では、それはどこにあるのかというと、そのもっとも期待できる一つが聖書の中、となる。バイブルは創造した側から与えられた啓示の記録ということになっているからです。もちろん、実際に知るにはその中に埋め込まれた『創造主の意図』を読み解かねばなりません。いずれにせよ、聖書の知恵、すなわち『聖智』からすると、実存主義の提示する問題など、簡単に粉砕されてしまう、こういう論理になっています。」



最近、キリスト教の形而上学を理解するうえで、哲学を勉強する必要があるのではないかと思っている。