丸山真男「春曙帖」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「ドストエフスキーの『悪霊』を私は大学を卒業したてのころ、はじめて読んだ。『悪霊』を読んだ私はもう読まない私にはかえらなかった。私はドストエフスキーに強姦されたのである。そのとき受けた傷から私は立上れないでいる。それは私の中にある心情的な左翼主義への傾斜にたえずブレーキをかけて来た。それだけでなく、本当にラディカルな思想とは何かに目をさまさせられた。」



「本居宣長の比類ないイマジネーションの能力と、学問的方法の驚くべき透徹性。――その両者の著しい懸隔と対比のなぞを説きあかさないで宣長に迫ったことにはならない。小林秀雄『本居宣長』には、これまで宣長研究者を多少とも悩ましつづけた右の『問題性』がまったく欠落している。それは『評論』であって『学術論文』ではない、という弁護はこの場合には通用しない。宣長学の構造自体が、――儒教古典の注釈学だけにでも安住できる儒学者と異なって、評論と学問との一種の『予定調和』の信仰の上に成り立っているからである。」


 読書メモである。