「宗教意識」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「イエスが少年時代を送ったナザレの地、伝道活動をしたガリラヤ湖、そしてイエスが洗礼を受けたヨルダン川、それらの地域を旅して、行けども行けども砂漠、砂漠、砂漠の景観にびっくりしたのである。」


「最後に、終着点の聖なる都、エルサレムに入った。その地ゴルゴダの丘で、イエスが十字架にかかって殺されたところだ。その聖都エルサレムが、まるで廃墟の上に建てらえた都市のようにみえたのである。それをとりまく周辺の光景が、これまた砂漠、砂漠・・・・だった。」


「この国の地上には頼るべきものが何一つない、ということだった。天上のかなたに唯一価値あるもの、絶対的な神を想定せざるをえなかった砂漠の民の精神的な願望というものが、理屈を超えて胸に迫ってきたのである。」


「一神教が成立する風土的な背景といったらいいのだろうか。そのような風土において天上の唯一の神は、それを信ずるか信じないか、それ以外には考えようのない存在に思えたのだった。そういう意味では、イスラム教も同じこのような「信ずる宗教」に属しているように思ったのである。


 山本七平が森本哲郎と「聖書が生み出した風土」という対談で、同じようなことを述べていた。


キリスト教史では教義と風土の相関性は否定されてはいるもの、山本は聖書はいちばん風土の影響を受けていると述べている。