再び橋本治「小林秀雄の恵み」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「小林秀雄は、私とは違う時代に生きていた。だから、私が小林秀雄を読んで、『分からない』と思う部分は、彼の生きた時代のもたらした部分である―そのように思うからこそ、『分からない』ということが気にならない。それは、自分の生きている時代とは違う、『小林秀雄の生きていた時代』に関わることだからである。その「判らなさ」を看過してしまえば、容易に小林秀を分かる。そしてそうなった時、小林秀雄は私の同時代人である。しかし、その私の『わかったこと=読んだこと』は、小林秀雄の語ったことのすべてではない。一部である。私は、小林秀雄の『語ったこと』にしか関心がない。小林秀雄の『語らない部分』はどうでもよい。そして、私が知るべきであることは、『小林秀雄の語った、私の分からない部分』なのである。」


「そこには、『小林秀雄の生きた時代』がある。小林秀雄は、そこで格闘していた。だからこそ、小林秀雄の書いたものには読む価値がある。だからこそ私は、『本居宣長』に感動したのである。」


 小林秀雄の『本居宣長』を読みつつ、橋本も読んでいく。しかし、橋本もわかりにく文章だ。