「日本は明治維新以来、西洋の吸収に努めてきた。和魂洋才などといって、意図的に洋魂の部分には目を塞ぎ続けてきた。」
「洋才とは科学のこと、西洋の科学とは物事の認識法の一つであり、人間が五感で認知できる領域で、物事の原因と結果のつながりを見つけていく認識ゲームのようなもの。自然科学、社会科学、人文科学など」
「洋魂とはキリスト教である。これは皆目研究されていない。なぜか。それが宗教であるからである。宗教は、その人の価値観を変え、日常的な行動をも変えてしまうものなので、国家としては扱いきれないものであった。」
「科学の科学理論に対し、宗教の理論は形而上理論である。科学理論は、人間が経験的に認識できる範囲の世界で、その因果関係を示すものであるが、神とか霊とか、天国など経験できない世界(非経験界)のことは、守備範囲外のこととして口を挟まない。この非経験の世界がどのようになっているかを述べるのが形而上理論である。この世界を考える学問を形而上学という。」
「科学理論も形而上理論も、どちらも世界の構造、物事の因果関係を示す理論ではあるが、形而上理論は、われわれの五感で感知できるものではないので、検証することが容易でない。」
「宗教教義は、
宗教教義=形而上理論+真理判断という等式が成立する。」
「宗教の教義というものは、神とか天国などの非経験の世界を含む全存在界がどのようになっているかを述べた形而上理論と、それを真理であると肯定する真理判断との二つを含んでいる。」
「われわれ日本人が洋魂を習得する方法は、キリスト教の教義のすべてを学ぶのではなく、その形而上理論の部分を分離して学習する、真理判断の部分を切り離すのである。」
日本人が宗教的純朴といわれているのは、この形而上理論が希薄な一方、信仰心(鰯の頭も信心からのたとえ)が濃厚だからだと、筆者は最後に述べている。しばらく、鹿嶋の著作を追求してみたい。