「日本の思想」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西洋的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は賛成であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。」


「第一に、雑種性を悪い意味で「積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論の「伝統」もあり、それはもうたくさんだということ、第二に、私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい不毛な論争が繰り返されるだけだろう。」


「丸山は、社会や文化の型をササラ型とタコツボ型の二つに分けている。ササラというのは、竹の先を細かくいくつに割ったもの、タコツボというのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列しているものをいい、近代日本の学問とか文化はタコツボ型であるという。」


「日本が近代化の過程で、ヨーロッパの学問を受け入れたときは、あたかもちょうどヨーロッパの学問が専門化、個別化が非常にはっきりした形をとるようになった段階であった。ところが、ヨーロッパではそういう個別科学の根はみな共通であるという。つまり、ギリシャ―中世―ルネッサンスという長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している。これがササラ型ということで、それが共通の根を切り捨てて、ササラの上の端の方の個別化された形態が日本に移植され、それが大学などの学部や科の分類となったというのである。」


 丸山の「日本の思想」については、まだまだ理解できない点,、興味深い点など多々あるが、しばらくおくこととする。