「聖書の論理」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「アメリカは、聖書に裏づけされた原理を堅くふまえて建国された、世界でも珍しい国です。」


「1620年に母国イギリスの国教会の宗教的圧迫を逃れ、ボストン郊外のプリムスに上陸したピューリタン(清教徒)と呼ばれた新教の一派は、徹底した聖書主義に立ち、母国イギリスの国教会の教義とどうしても相容れず、自らの教義を貫くために新天地を求めました。」


「彼らは人間を評価する際、その内に抱く形而上理論(理念)をいかに重視したか、また彼ら自身がそれをいかに激しく抱いて生きるタイプの人たちであったか、確固たる理念を抱かない人間は、共に共同体を建設する仲間として受けいられることはありませんでした。」


「民主主義の本家アメリカでは、社会の構成員にはすべて、言葉で判らせあうため、話し合いの場への参加機会を与えようとします。これは彼らの基本原理であるが、それには暗黙の前提があり、「その人間が、確固たる行動原理(日本的にいえば哲学)をもっている」ことである。」


「Man of no principle(行動哲学なき人間)と判定をされたら、文字どおり市民の権利を与えるに値しない人の烙印を押されたことになる。」


「そして、社会の構成員がそのよって立つ人生信条を正直に表明しあったときに、メンバーのコミュニケーションが効率的になり、ひいては社会経済の効率も増すとされていた。」


「こうした原理は同時に、救われる信仰は心に抱くだけでなく唇に告白して完全なものになるという聖書の思想にも沿っている。

『人はこころに信じて義とされ、口で告白して救われる(ローマ人への手紙10.10』は、その一つである。」


「この点、日本人は、その対極です。わが国では、自己の信条をやたらに表に出すことは、はしたないこと、人を疲れさせることだとされる。あまり強固な哲学を持たない人が人畜無害で安心な人と尊敬される。この国では、アイデンティティーをはっきりさせないことが上にまつりあげられる条件なのである。」


 かつて、吉田茂の懐刀、白洲次郎は、GHQからプリンシプルのある男といわれていた。