「聖書の論理」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

西洋の世界観

<天>――――――――――<世>

神の支配空間――――――サタンの支配空間

聖―――――――――――俗(汚れ)

spiritual―――――――――secular

永遠――――――――――一時的

光――――――――――― 闇


「『天』対『世』という世界の二極構造観は、西洋人のものの見方に多大なる影響を与えている。聖書では、この宇宙は、最終的には火でもって焼かれて消滅するように計画されたものとなっている。永遠に残る良きものは『天国』のみである。そこで、人間が第一に求めるべきは将来その霊が天国に住めるということ、という思想がでてくる。イエスが『まず先に永遠の問題を解決しなさい』というのも、世俗のことは天に比べたら軽いということである。」


「したがって、たとえ世のため人のためであっても、天を意識せずにそれに励んでいる姿を、彼らは基本的なところでは評価することはない。表面的には評価をするかもしれないが、意識の奥ではそうしていない。例えば、日本のある経営者が産業を通じて人類を豊かにするために邁進しているとする。それ自体は立派なことであることは認めるが、彼がそれを人生において最高に価値あることと意識し、陶酔しているならばその評価は「彼は世俗的な男だ(He is secular)ということになる。世俗的なことは、天と比べれば第二義的なことなのである。」


「こうした聖書の世界観では、絵画、音楽、文芸などのいわゆる芸術や科学も『この世のもの』であり、永遠の『天』のものと違って、いずれ過ぎ去っていく二義的なものである。」


「これに対し、日本人はちがう。われわれは『世』を二つの領域に分けて、「精神的なもの」対「物質的なもの」という類型で見る。そして精神的なものは物質的なものより上位にあると、とらえる。この世のものごとを「物」と「心」という枠組みでニ分類し、心にかかわるものを上位に位置づける意識がある。その結果、芸術家や学者等を「文化人」という具合にまとめ、彼らを上流人とする。」


 日本人には「世」と対立した「天」の観念はない。天皇を神にたとえた時代はあったが。