丸山真男「『であること』ことと『する』こと」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣くう偏見から最も自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、より自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になる得るチャンスに恵まれていることになる。」



「アンドレ・シーグフリードが『二十世紀の諸相』のなかでこう意味のことをいっております。『教養においては(内面的な精神生活のことをいう)、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。』彼によれば芸術や教養は『果実より花』なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。」


「政治や経済の制度と活動には、学問や芸術の創造活動の源泉としての古典に当たるようなものはありません。せいぜい「先例」と「過去の教訓」があるだけであり、それは両者の重大な違いを暗示しています。政治にはそれ自体としての価値などというものはないのです。政治はどこまでも『果実』によって判定されねばなりません。政治家や企業家、とくに現代の政治家にとって、『無為』は価値でなく、むしろ『無能』と連結されても仕方のない言葉になっています。」


「ところが文化創造にとっては、なるほど『怠ける』ことはなにものをも意味しない。何も寡作であることが立派な学者、立派な芸術家というわけでは少しもない。しかしながら、こういう文化的な精神活動では、休止とは必ずしも怠惰ではない。そこではしばしば「休止」がちょうど音楽における休止符のように、それ自体「生きた」意味をもっています。ですから、この世界で瞑想や静閑がむかしから尊ばれてきたのには、それだけの根拠があり、必ずしもそれを時代おくれの考えた方とはいえないと思います。文化的創造にとっては、ただ前に進むとか、不断に忙しく働いているということもよりも、価値の蓄積ということが何よりも大事だからです。」


 「『であること』ことと『する』こと」。現代文の試験問題でみたような気がするが。

「音楽の対話」が無駄ではなかった。