「聖書の論理」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「聖書では、創造主への依存心のある状態が常に求められている。悪い行いの根本原因は、サタンが働いたことにある。」


「聖書では自己の悪行の究極の原因はサタンに置くのが正しいことになる。一見無責任に見えるが、失敗に気がついたら『主よ、サタンが悪いのです!』というのが聖書的には、神の喜ばれる正しい状態、信仰ある状態なのである。」


「逆に、責任感と自主性にあふれて、原因を自分の未熟さに帰し、反省し、自分の努力でこれをなさないように決意するのは、実は信仰のない傲慢な状態ということになる。信仰(faith)というのは、創造主の力を信じて、かつ頼るということだからだが、この論理も、日本人にはなじみ難い典型の一つである。」


「こうした理論体系は西洋人に、特有の社会意識をもたらす。日本の格言に『罪を憎んで人を憎まず』というのがある。これは悪いことをしたとしてもそのこと自体は憎むべきことではあるがその当人は憎まないでおこうという一つの教えである。」


「これが聖書の思想では、『サタンを憎んで人を憎まず』ということになる。罪自体は悪いことではあるが、それを犯した人は、根本的にはサタンによって悪い思いをもたらされたからなので、憎むべきはサタンだというわけである。西洋ではこうした意識過程を経て、人を許す気持ちが形成される。西洋人の『人を許す』は、罪の原因を悪霊に置き換えることによる。そして罪の原因を憎む気持ちは、微動だにさせない、という構造である。」


 確かになじみ難い話である。