「聖書ものがたり(最後の晩餐)」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「今、わたしはエルサレムに上がろうとしている。ついに私の時が来ようとしている。エルサレムで私の身に何が起ころうとも、うろたえてはならない。私は、祭司長や律法学者たちに引き渡される。そして、彼らは私に死刑を宣告する。私はあざけられ、むちで打たれ、最後は、異邦人の手で十字架に付けられる。しかしわたしは、三日目に必ず蘇る」


「最後の晩餐というと、ほとんどの人がレオナルド・ダ・ヴィンチのあの絵を思い出す。しかし、ダ・ヴィンチの最後の晩餐は西洋化された食事の風景であって、歴史的事実を伝えるものではない。イエスが弟子たちと食した最後の晩餐は、セデル(過越の食事)である。ユダヤ的文脈の中で、最後の晩餐を理解しないとイエスの死の本当の意味が見えてこなくなる。」


「イエスの裁判は、二つの段階で行われた。ユダヤ人による宗教裁判とローマ人による政治裁判である。この手順を踏まなければ、ユダヤ人たちはイエスを死刑にすることができなかった。」


「ピラトは、紀元26年に第五代目のユダヤ総督となり、36年までその地位にとどまり、不思議な歴史の巡り合わせで、彼は紀元30年にイエスを裁いた。」


「有罪判決を受けたイエスは、ピラトの官邸から刑場までの道を、十字架を負って歩かされることになった。ローマが行っていた普通の処刑法である。」


 この場面は、知らなかったことばかりで、記憶にとどめておきたいことが多い。


「イエスの最後の言葉はこれであった。『父よ、わが霊を御手に委ねます。』