豊饒の海「暁の寺」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「仏教を異教と分かつ一つに、諸法無我印というのがある。仏教は、無我を称えて、生命の中心体と考えられた我(アートマン)を否定し、否定の赴くところ、我の来世への存続であるところの「霊魂」をも否定した。仏教は、霊魂というものを認めない。生物に霊魂という中心の実体がなければ、無生物にもそれがない。いや、万有のどこにも固有の実体がないことは、あたかも骨のない水母のようである。」


「ここで困ったことが起こるのは、死んで一切が無に帰するとすれば、悪行によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に昇るのは、一体何者なのであるか?我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのであろうか?」


「この問題が見事な哲学的成果を結ぶには、大乗の唯識を待たねばならぬのであるが、唯識の先蹤となるのが、小乗の軽量部であり、善悪業の余習が意志に残って意志を性格づけ、その性格づけられた力が因果の原因になるという、種子(シュウシ)くんじゅうの概念が定立せられる必要がある。」


 三島由紀夫が、仏教を学ぶのになにを読んだのか、小説は、論文のように参考書籍も引用文献も書いてないのでよくわからない。