再び「奔馬」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「輪廻とは衆生が、迷界すなわち六道―地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上ーを、終わりも知れず経めぐってゆくことである。しかし、転生の語には、時にあって迷界から悟界へ赴くことも含まれるから、その時輪廻はやむであろう。輪廻は必ず転生であるが、転生は必ずしも輪廻とはいえない。」


「仏教では、輪廻の主体は認めるが、常住不変の中心の主体というものをみとめない。我の存在を否定してしまうから、霊魂の存在をも決してに認めない。ただみとめるのは、輪廻によって生々滅々して流転する現象法の核、いわば心識の中のもっとも微細なものだけである。それが輪廻の主体であり、唯識論にいう阿頼耶識である。」


「この世にあるものは、生物といえども中心主体としての霊魂でなく、無生物といえども因縁によって出来たもので中心主体がないから、万有のいずれにも固有の実体がないものである。」


「輪廻の主体が阿頼耶識とすれば、輪廻が動いていく様態は業である。そして学説によっていろいろ分かれて、仏説独特の百千の異論異説がはじまる。ある説は、阿頼耶識はすでに罪の汚染されているから、業そのものであると説き、ある説は、阿頼耶識は半ば汚れ半ば無垢であるから、解脱への橋を蔵していると説く。」


 これもとりあえずメモっておく。