山田洋次監督、吉永小百合二宮和也黒木華加藤健一広岡由里子浅野忠信出演の『母と暮せば』。

音楽は坂本龍一



1948年。長崎で助産婦をしながら独り暮らしをする伸子(吉永小百合)の家には、3年前の8月9日の原爆投下で亡くなった次男・浩二(二宮和也)の恋人だった町子(黒木華)が今も時々訪ねてきて身のまわりの手伝いをしていた。ある日、伸子が浩二の遺影に町子からもらった卵で作った息子の好物の玉子焼きを供えていると、彼女の背後に死んだはずの浩二が現われる。


井上ひさしの舞台作品「父と暮せば」、およびその映画化作品に触発されて、井上さんの遺志を継いでちょうど対になるような形で作られた作品。

僕は以前、黒木和雄監督、原田芳雄宮沢りえ主演の映画『父と暮せば』はBSで放映されていたのを観たんですが、もともと舞台劇ということもあってほぼ二人芝居の淡々とした内容の映画で、ちょっと集中して観ていられなくてほとんど内容を覚えていません。




今回も『母と暮せば』の鑑賞前に観返していないので作品として両者を細かく比較することはできないんですが、『父と暮せば』は広島で原爆によって亡くなったはずの父親がその後も生き残った娘と生前の姿のままで一緒に暮らしている話で、だから長崎を舞台にして原爆で亡くなった息子が母親の許にやってくるこの『母と暮せば』では、観客は『父と暮せば』とほぼ同じ話を今度は「生き残った母親」の立場から見ることになる。

『父と暮せば』では父をはじめ原爆で死んだ人々への罪悪感から恋愛や結婚に踏みきれずにいる娘を宮沢りえが演じていたが、彼女のキャラクターは『母と暮せば』で黒木華演じる町子に受け継がれている。


それにしても黒木華はつくづく“昭和の女性”が似合うなぁ


しかも、どちらの映画でも浅野忠信が恋人役で出演している。

浅野さんはすでに『母べえ』で山田洋次作品に出演済みだけど、これは明らかに意図的な配役でしょうね。

それでは、これ以降『母と暮せば』『母べえ』『おとうと』のネタバレがあるのでまだご覧になっていないかたはご注意ください。



映画館は予想通り年配のお客さんたちが大勢いて、山田監督の映画はだいたいいつもそうなので「あぁ、山田洋次の映画を観てるなぁ」という実感が湧いてくる。

今回もまた、前作『小さいおうち』に引き続き「戦争」という題材が選ばれている。

また、これも吉永小百合が主演を務めた『母べえ』以降、山田洋次は「家族」についての映画を撮り続けている(2010年の『京都太秦物語』は未見なので除く)。

そこでは必ず「肉親の死」が(直接的な描写がない場合も含めて)描かれる。

 


吉永小百合は今回、山田洋次作品では『母べえ』に続いて死にゆく母を演じている。

礼拝堂で彼女が胸を押さえて座り込む頃には、だいたいラストの展開は想像ができてくる。

『おとうと』で笑福亭鶴瓶が咳き込んでいたのと同じだ。

それでも原爆投下からそれほど間を置かずに息子の浩二を捜して町を歩き回ったという彼女が残留放射線によって被曝している可能性は高いだろうし、劇中では原爆症の症状が具体的に描かれることはなく彼女の死因もハッキリしないが、被曝後何年も経って症状が表われることはあるから伸子の突然の死はけっして非現実的なことではない。

劇中で原爆症によって若くして亡くなった女性の話が出てくるが、それは伸子の死を予言するものだった。

爆風で砕け散った無数のガラス片が身体中に突き刺さって亡くなった浩二の恩師・川上教授(橋爪功)についても、その死は台詞によって表現されるだけだ。

直接描写されなくても、大切な人の死をいくつも経験してきた者にはそのむごたらしい惨状がまざまざと見える。

僕が山田洋次の映画で描かれる「人の死」に心を動かされるのは、それがただ観客を泣かせてやろうというあざとい狙いではなくて(あるいは、そういう狙いも含んだうえで)、そこには現実の世の中でいくつもの「死」を経験した者にそれを思いださせる実感がこもっているからだ。

断末魔で激痛にもだえながらも好きなアルコールを飲もうとする、人間とはそういうものだ。

だからこそ、そんな愛おしい人々の命を奪ったものへの怒りと言い様のない悲しみが湧いてくる。ちょうど『小さいおうち』がそうだったように。


南方で戦死した長男が仲間たちとともに伸子の夢枕に現われる場面では、黒澤明の『』の一場面(「トンネル」)を思いだした。




あの場面は非常に演劇的だし、今観ると映画としては古臭い表現にも見える。

けれども、僕には肉親が恐ろしい姿で夢枕に立つあの描写がとてもリアルに感じられるのだ。

人は不安に駆られている時、しばしば悪夢を見る。

ましてや息子が戦場で戦っている母親ならば、虫の知らせのようなものが心をよぎっても不思議ではない。彼女はすでに夫を戦争で亡くしているし、さらにまた大切な存在をいつ奪われるかわからない状況なのだから。


この映画を「ファンタジー映画」と表現している感想をしばしば目にするのだけれど、少々違和感がある。

死んだ息子が生前の姿で現われるからファンタジー、ということなんだろうけど、それはけっして現実にはありえない絵空事ということではなくて、これは「死者」の姿を借りて生きている者たちの心の中の想いを描いた物語なのだと思う。

母と死んだはずの息子との会話は、一人生き残った母の心の中の葛藤、彼女の自分自身との対話をあのような形で表現したものなのだ。

生前に恋人だった町子のことを死んだあとで「彼女に俺以上にふさわしい相手がいるわけがない」とまるで現世に未練があるようにだだをこねていた浩二の姿は、映画の後半で町子に婚約者を紹介された直後に唐突に心境が急変して“幸せになろうとしている町子”に嫉妬する伸子自身の心の乱れ、生き残った者の悔しさと悲しみのことなのだろう。

二階の息子の部屋でクラシックのレコードを聴いて涙を流しているのは、実際には死んだ浩二ではなく、彼を失った伸子なのだ(伸子は町子から、時々浩二の部屋のソファに座ってぼんやりとしている、と指摘される)。

死者はものを言わない。

死んでしまった者は考えたりものを言ったり涙を流したりしない。

死んでしまったのだから。もういないのだから。

その絶望感の中で、生き残った者、残されてしまった者は死者の想いを想像し、自らの中の無念さや悔い、怒りと悲しみを死者の姿とその口を借りて語るのだ。

そういうことなんだと思う。


この映画は、吉永小百合という銀幕のスターと二宮和也というアイドルの二人が演じる「聖なる母子」の究極的な愛の成就を描いた物語といえる。

僕はかつて『硫黄島からの手紙』を観て、童顔でまるで少年のような二宮君が結婚しているという設定にまったくリアリティを感じられなくて、それは今回の許婚のような女性がいる若者でも同様だったんですが、要するにイーストウッドも山田洋次も二宮和也をある種の「天使」のような存在として描いたんじゃないだろうか。

登場人物に生身の人間としてのリアリティを持たせたいのなら、きっともっと他に相応しい俳優を選ぶでしょう。

日米の2人の監督は、二宮君のイノセントで屈託のない笑顔と軽みに人間の中にある「無垢」を象徴させたのではないかと。

『硫黄島~』の二宮君は、太平洋戦争中にもかかわらず妙に現代っ子っぽかった。それは意図的にそうしたのかもしれない。

正直、この『母と暮せば』での二宮君の演技はちょっと舞台劇の演技っぽくて(不自然な手の動きとか)観ていてなかなか慣れなくて困ったんですが、やはり「母親役にリアリティがない」という批判もある吉永小百合との親子の姿には、どこか生身の人間を超越した聖性を帯びた存在のようにも感じられたんですね。

終戦直後という時代設定だからこそ、ギリギリ通用したというのもあると思いますが。

また、二宮和也が演じる浩二は、やんちゃだが年のわりに幼さを感じさせたり母親に甘えているようなところなどが市川崑監督の『おとうと』(山田洋次監督版ではなく幸田文原作のオリジナルの方)での弟・碧郎(川口浩)を思わせる。

『おとうと』(1960) 出演:田中絹代 森雅之



『おとうと』の碧郎は肺病で、浩二は原爆で亡くなる、という違いはあるが、彼らはどちらも生きていた頃のそのカラ元気のようなお喋りで快活なところや友人たちと歌を唄ったり仲間内の中心にいたりと、互いにどことなく雰囲気が似ている。

『おとうと』では弟が甘えるのは姉(岸惠子)だが、そちらは山田監督が市川監督の作品にオマージュを捧げた同名映画でそのまま踏襲している(弟役は川口浩とは似ても似つかない鶴瓶師匠だが)。しかもそこで姉を演じていたのは吉永小百合だ。

だから、おそらく『母と暮せば』の浩二には『おとうと』における碧郎のキャラクターが重ねられている。

小津監督や市川監督など、山田洋次監督は往年の名監督の作品を意識的に自作に取り込んでいますね。


映画の冒頭近くで伸子や町子とともに墓参りをして、8月9日の原爆投下について「人間のすることじゃない」と呟く男性を演じている辻萬長はこれまでに井上ひさしのこまつ座の「父と暮せば」の公演で父親役を演じてきた俳優さんで、僕はどこかで見覚えがあるなぁ、と思ってたら『ガメラ2 レギオン襲来』で戦闘指揮所の師団長を演じていた人だった。井上ひさし作品に縁の深い役者さんだったんですね。



※辻萬長さんのご冥福をお祈りいたします。21.8.18


山田作品では今やお馴染みとなった小林稔侍が戦争で左手首を失った復員局の局員役でワンシーンに出演、また戦地の父親の消息を聞くために町子に付き添われて電車に乗って復員局まで行く少女を本田望結が演じている。望結ちゃんはちょっと小学二年生には見えなかったけど、お母さんは死んでしまって自分には妹たちがいるから泣いてはいけないんだ、と涙を堪える姿が健気でした。




彼女を差し置いて号泣する町子にはちょっと呆気に取られてしまったが。彼女は恋人を原爆で失っているのだから、同じように戦争によって肉親を亡くした者への同情で思わず涙したのはわかるんだけど、彼女が伸子の前で発した「可哀想」という言葉は、台詞に出して言ってしまうとひどく安っぽく感じられる。

それでも3.11の大震災を経て、また「戦争」というものが以前よりもリアリティを増している現在、肉親を奪われた人の悲しみはただ「可哀想」という同情心を越えて僕たち観る者の胸に迫るものがある。

それだけに、劇中で伸子は、洪水のような災害ならともかく浩二は戦争で死んだのだからそれは「運命」などではない、と言うが、『東京家族』の中でも大震災で亡くなった人について描いていた山田洋次が、なぜわざわざそんな台詞を入れたのか実に不可解だった。

戦争は人間が起こすものだが災害は違うから、ということかもしれないが、災害で肉親を失った遺族だってそれを「運命」などと割り切れるものじゃないだろう。

戦争だろうと災害だろうと残された者にとって肉親や親しい人を失った痛みとその理不尽さへの「なぜ?」という疑問は変わらないんじゃないだろうか。

キリスト教の盛んな長崎らしく伸子はクリスチャンで、夫と二人の息子を戦争で失ったあとも我が家や礼拝堂で日々神に祈り続けている。

しかしキリスト教の国アメリカによって原爆が投下された8月9日、長崎ではクリスチャンの人々が礼拝堂で祈りを捧げていたのだ。

その教会もろとも信者たちの命を“神”は一瞬にして奪い去ったのだった。

実に奇妙で皮肉ですらないだろうか。

自分の息子を奪った神を伸子はなぜ信じ続けられるのだろう。

僕には不思議でならなかった。


おそらく、戦後を若者として過ごした山田洋次には浩二と同様にアメリカは憧れの国だったのだろう。

浩二は母・伸子に自分が観てきた映画の話をする。彼は映画監督に憧れていたこともあり、小津安二郎伊丹万作の名前も口にする。そしてひとしきりアメリカ映画を褒めたあと呟くのだ。

「アメリカは不思議な国だな。あんなに素敵な映画を作るのに、原爆も作る」

それは山田洋次の中にある疑問だろうし、現代を生きる僕たちの感じる疑問でもある。

素晴らしい文化を持ち優れた映画も作る国が、一方で大量破壊兵器で人間を虐殺する。

同じ人間がやっていることだ。

このアンビヴァレントな感情。


浩二が想い出話をして、伸子がそれに相槌を打ちながら話を合わせ、親子のふれあいの時間が続くが、やがて息子は自分が原爆によって死んだことに気づいて涙を流し、母の前から姿を消す。

しばらくして、また息子はケロッとした顔で姿を現わす。

この繰り返しが続くので、正直なところ映画の中盤は堂々巡りな感じもしてちょっとシンドかった。

でも、母親と息子のたわいない会話なんてこんなものだろう。

他人が聞いてるとどーでもよくて、なんだか尻がむず痒くなってくるような母と子の仲睦まじいひととき。

「親子ではなく、まるで恋人同士のように見える」という指摘もある吉永小百合と二宮和也の母子のこの結構気持ち悪くもある母と子の密着関係は、でも自分には非常にリアルに感じられたのだった。

伸子は浩二にまるで恋人のように接するが、これも意図的な演出だと思う。彼女にとって浩二は先に死んだ夫であり長男でもあるのだから。

幽霊である浩二は、ヤミ屋をやっていてヤミ物資を持ってしばしば母の許を訪れる「上海のおじさん」(加藤健一)にも嫉妬する。

 


上海のおじさんはちょうど『母べえ』における「大阪のおじさん」(笑福亭鶴瓶)のように人懐っこくて官憲嫌いな、死んだ人間よりも生きている人間のことを優先するようなちょっとがさつで無神経なところもあるが裏表のない好人物である。

『母べえ』の鶴瓶同様に、どこか寅さんを思わせる。

加藤健一さんは演劇界では有名な俳優さんだけど映画に出演することはめったにないそうで、僕は高校時代は演劇部に所属していたんで加藤さんのお名前や「加藤健一事務所」の存在は知ってたけど、彼の演技をじっくり観るのは今回が初めてでした。

けっして下品ではないが、吉永さん演じる伸子に惚れていることは明らかな「おじさん」を飄々と演じていて、でも男前だからこそどこか匂うオスの体臭も感じさせて実に良かった。

このおじさんが母を「女」として見ていることに息子が抱く嫌悪感。

このあたりも「母」を「女」として意識させる場面は演じているのが吉永小百合だからあまり違和感がないが、現実に結婚も考えているような年頃の息子にしてみればなかなか複雑な心境だろう。

伸子には生者の側にいる「上海のおじさん」とともに生きる道もあった。

しかし、「息子に怒られるから」と彼女はやがて上海のおじさんのヤミ物資も拒否するようになり、そしてこの世への未練を捨てた我が子とともに天に昇っていく。

母親に「サヨナラの挨拶」をしにきたように見えた死者である息子は、愛する母親を連れにきたのだった。

または、生きていた母が自ら息子と一体になることによって、死んだ息子を本当に成仏させたのだともいえる。

人によっては、これは虫唾が走る母と息子の「愛」の物語であろう。


生前の浩二と町子の様子を見ていてもユーモラスでさえある描き方だが、これは母と息子の恋人との静かなバトルを描いた物語でもあったことがやがて明らかになる。

階下には母親もいる実家でカノジョとしょっちゅうイチャついてる浩二には違和感というか、戦時中に結構なご身分だな!リア充爆発しろ!とも思ったんだけど(あ、いや、死んでしまったわけだが…)、あれはおそらく現代の若者たちの姿なんでしょう。

 


僕は『母べえ』を観た時にとてもいい映画だと思いながらも唯一不満な点として「母べえが亡くなる現代の場面が不要」だと思ったんですが、この『母と暮せば』で描かれているのは1948年の限られた期間だけ、その中で山田洋次は現在に通じる親子や恋人同士の傍で見てると気恥ずかしくなってくるほどの情愛を描いていて、だからこそそのベタベタぶりのあとの離別がいっそうツラいのだ。

町子を演じる黒木華さんは『幕が上がる』での演劇部の副顧問の先生役との演じ分けが本当にお見事。『幕が上がる』の時とはまったく別人に見える。発声の仕方や声のトーンもキャラによって変えてるんだよね。

役になりきるタイプの女優さんなんだなぁ、と。

僕は未見ですが今年は他にも『ソロモンの偽証』にも出演していて、ほんとにさまざまな映画で大活躍ですね。

『小さいおうち』の感想では「蒼井優の代わり?」みたいな失礼なこと(冗談ですが)書きましたが、あの映画での女中のタキ役や今回の町子役は黒木さんだからこそ説得力を持ったキャラクターだから、彼女はすでに山田洋次作品での自分のポジションを確立している。

ちなみに来年公開で『東京家族』のあの家族と同じキャスト陣がそれぞれ同じキャラクターを演じるスピンオフ的な作品『家族はつらいよ』(ただしこちらはタイトルからもわかるようにコメディの模様)には蒼井優さんが出ているので、山田監督は別に蒼井優から黒木華に乗り換えたわけではないようでw

キャラがカブりそうでいながらハッキリ異なる個性を持つこの二人の女優たちをこれからも作品によって使い分けていく気なんでしょうか。

『母と暮せば』の町子は『小さいおうち』の若い女中と同じく真面目で控えめな人物だけど、これからは山田監督の映画で黒木さんのもっと違った種類の演技を見てみたいです。

『小さいおうち』への黒木さんの起用の理由が監督いわく「クラシックな顔立ち」だったように、流行りの“昭和顔”は義理堅く古風な性格の町子にピッタリでした。

もっとも町子に関しては、死んだ恋人の母親に「息子のことは忘れて自分の人生を歩んでほしい」と言われて憤慨して泣きながら帰ったのに、次に顔を見せた時には早速婚約者を連れてくるって、ちょっと飛び過ぎじゃねーのか、とは思うんだけど。

まるでそのショックで「サユユ(二宮君が吉永さんのことをそう呼称)」が死んじゃったみたいではないか^_^; 普通はもうちょっとその間にいろいろと段階を踏むでしょう。

あれだけ浩二のことを想い続けていたのに、そのあっけなさは何?と。彼女の逡巡の様子が一切描かれていないから、思い切りが良過ぎてなんだかずいぶんと薄情に見えてしまう。

『おとうと』や『東京家族』の蒼井優演じるヒロインなんかもそうだったけど、山田洋次が描く若い女性ってこのようにどうも無神経、というかヒドくなところがある。

それがわざとそういう演出にして生身の人間の無意識の残酷さを描いているのか、それとも監督の“天然”によるものなのかわからないのでモヤモヤするんですが。

ここは小津安二郎監督の『東京物語』で原節子(ご冥福をお祈りいたします)演じる紀子が「自分は戦死した夫を思いださない時もある」ことに自責の念に駆られる場面を思わせるんですが、文字通り「聖性」を宿していた原節子のヒロインに対して、山田洋次が描く町子は最後に人間っぽい生々しさを残すのだ。

最後の最後に町子は「聖女」ではなく、これからも生きていく生身の人間であることを選ぶ。

伸子は自分の葬儀が行なわれる中、浩二とともに天に召されるが、その時に町子には一瞥もくれず、自分が母親のおなかから取り上げて町子と同じ名前を付けられた妹を持つ少女に微笑みかける。

息子の嫁に義父が亡き妻の形見を託す『東京物語』と、母が(表面的には彼女の幸せを願いながらも)息子の恋人と最後に本当の赤の他人同士になる『母と暮せば』。

どちらも日本映画史に名を刻む二人の女優が演じたヒロイン像のこの違いが面白い。

僕は小津監督のその諦観からくる笑顔に包まれた現実を見つめる目の厳しさに比べて、山田洋次監督の作品にはどこか中途半端さを感じてもいたのだけれど、意図しているのかそれとも意図せざる結果なのかはわからないながら、我が子を愛する母親が最後にその息子の恋人と永遠に袂を分かつこの映画を観て、山田洋次監督のその「人間の酷薄さ」に対する眼差しに非常に味わい深いものを感じたのでした。

この映画は見た目ほど単純な「ファンタジー映画」なんかじゃないんではないか。

もっともっと哀しくて残酷なことを描いているんじゃないのかな。

何か、噛めば噛むほど味が出る、そんな映画でしたよ。



※坂本龍一さんのご冥福をお祈りいたします。23.3.28


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