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山田洋次監督、橋爪功吉行和子妻夫木聡西村雅彦中嶋朋子蒼井優夏川結衣林家正蔵出演の『東京家族』。

音楽は、これが山田洋次作品への初参加となる久石譲



瀬戸内海の島から老夫婦(橋爪功、吉行和子)が子どもや孫たちに会いに東京にやってくる。開業医の幸一(西村雅彦)、美容院を営む滋子(中嶋朋子)、そして舞台美術の助手で生計をたてている末っ子の昌次(妻夫木聡)らはあたたかく迎えるが、仕事でいそがしい彼らは両親の東京見物につきあうこともままならない。年老いた両親は子どもたちの家を点々とすることに。


小津安二郎監督の1953年の作品『東京物語』のリメイク。

この『東京家族』はしばしば“小津作品にオマージュをささげた作品”と紹介されているけど、観てみたら予想してた以上に内容は『東京物語』そのまんまだった。

老父「平山周吉」をはじめ、登場人物の名前も『東京物語』からいくつもとられている。

「とうとう宿無しになってしもうた」のようにまったくおなじ台詞、おなじような風景ショットなどもある。

もっともあとで述べるように、それぞれの作品の「テーマ」といえるものは異なっているのだが。

『東京物語』(1953) 出演:笠智衆 東山千栄子 原節子 杉村春子 香川京子



もし『東京物語』をまだ観たことがないかたは、一度ごらんになることをお勧めします。

この『東京家族』がより楽しめるだろうし、ツッコみ甲斐も出てくると思います。

この映画のことはずいぶん前から知っていて、じつは2011年に公開予定だったのが、おなじ年におこった東日本大震災によって撮影が延期、主要キャストも変更になった。

当初、老夫婦を演じることになっていたのは菅原文太市原悦子で、また長女の滋子役は室井滋だったという。

諸事情で配役が代わったが、そちらのヴァージョンもぜひ観てみたかった。


さて、公開がはじまってもしばらく観に行くかどうか迷っていた。

というのも、山田監督の前作『おとうと』が個人的にどうもシンドかったので。

なにがシンドかったのかというと、その演出スタイル。

特に蒼井優が演じる娘の台詞廻しにはどうしても慣れることができなかった。

劇中で蒼井が発する「~わよ」「~かしら」などの言い回しには、どこか大林宣彦の『転校生 さよなら あなた』を観たときのような「これはいったいいつの時代に撮られた映画なんだよ」という違和感がバリバリで、とても2010年の映画とは思えなかった。

しかもその棒読みのようなしゃべり方は往年の小津映画のそれをおもわせた。

蒼井優という女優さんはふだんほかの映画やTVドラマではもっとふつうに自然なしゃべり方をしているので、これは演技のつたなさによるものではなくてあきらかにそういうふうに演出されているのだ。

で、その山田監督の新作が『東京物語』をモティーフにした作品、と知って「またあの不自然な棒読み演技を見せられるのか」と躊躇していたというわけ。

でも『たそがれ清兵衛』以降は新作を劇場で観てきたので(『おとうと』とおなじ年に公開の『京都太秦物語』は未見)、やはりいちおうおさえておきたい、という気持ちがあって。

146分の作品なので、DVDになったらよけい観ないかもしれないし。

以下、『東京家族』と『東京物語』の違いをくらべながら感想を書いていきます。

ネタバレあり。



じっさいに観てみると、はじめからかなり警戒を強めてのぞんだためか『おとうと』のときほどの嫌悪感はいだきませんでいた。

とはいえ、すでに観る前から違和感はけっこうあって、まず橋爪功が爺さん役って、どこの「まんが日本昔ばなし」なんだよ、と。

里見浩太朗水戸黄門ほどではないけど、いまの70代って昔ながらの「おじいさん」の役をやるとコントっぽくなっちゃったりすんだよね。

それに、この映画のなかの橋爪さんは「理屈っぽい」とか「子どもに厳しい」とかいわれながら、そういうところはほとんど描かれないので、彼の子どもたちがいうような偏屈じいさんには見えないのだ。

そして、長女役の中嶋朋子。

なんだあのかっこう(^▽^;) どこの松金よね子だ(エイドリアンでも可)、と。

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いったい年はいくつの設定なんだよ、というような昭和のおばさんテイストな服装と眼鏡。美容院の名前も「ウララ」だし(これは『東京物語』からの引用)。

くわえて長男の嫁役の夏川結衣が中嶋朋子のことを「お義姉さん」とよぶ違和感(長男の妹なんだから“義妹”ではないかと思うのだが…)。

ふたりとも年はそんなに変わらないんだけど、でも年々顔が“はるな愛”に似てきた夏川結衣(すいません、冗談です)とくらべて、彼女より年上という設定らしい中嶋朋子のおばさん演技にはやはり無理がある。

かわりに久本雅美が演じればよかったのでは(ごめんなさい、冗談です)。

当初の予定どおり室井滋がキャスティングされていたら、もうちょっとそれらしく見えたかもしれない。

そうすると家族全員の年齢がズレていってしまうのだが。

中嶋朋子が演じる長女・滋子は、『東京物語』で杉村春子が演じていた志げに相当するキャラクター。

『東京物語』での杉村春子はせっかちで押しが強く、かなりあからさまに両親を邪険にあつかう。

「いやになっちゃうなぁ~」を連呼していた。

かつて北の国でキタキツネに「ル~ルルル」といってたカワイイ蛍ちゃんにはまだちょっと真似のできない貫禄があった。

『東京家族』の中嶋朋子は、母親がいよいよ危ないと告げられて椅子に座って泣くときなんか、アンヨが綺麗だったり、ちょっと萌えキャラなんである。

『東京物語』では志げを止める者は誰もいなかったが、『東京家族』では妻夫木聡が演じる次男の昌次が姉の滋子に「いいかげんにしろよ」とツッコミを入れる。

弟にとがめられて泣く蛍。萌える。

『東京物語』では戦死して登場しなかった昌次(『東京物語』では昌二)は、この映画では「5年、10年先のことなど考えられない」不安な経済状態で生活している。

彼の存在によって、『東京物語』では原節子が演じていた紀子のキャラクターも変化することに。

『東京物語』では義理の両親にまるで聖女のように親切に接していた紀子は、蒼井優が演じる今回の『東京家族』では、昌次を支えるしっかり者ではあるが性格はずいぶんと子どもっぽくなっている。

『東京物語』では紀子は義理の母親に「おこづかい」までわたしていたが、『東京家族』では経済観念のない昌次のかわりに紀子が彼の母親からお金をあずかる。

橋爪功が演じる老父・周吉は飄々とした好々爺だった『東京物語』の笠智衆と違って愛想がなく、特に今回会ったばかりの紀子の前ではほとんど口をきかない。

このため紀子は周吉のことを快く思わず、昌次の母の葬式にきたことを後悔さえする。

やがて周吉と彼女は別れの直前に心をかよわせるが、『東京物語』で原節子が義母亡きあと義父・周吉と交わした言葉と、今回、橋爪功と蒼井優が交わしたそれはまったく別物である。

蒼井優が後悔しているのは、無愛想な橋爪功のことを「感じ悪い」と思ったことなのだ。

これは『東京物語』の原節子が親切な彼女を褒める義理の父親に「自分はそんなにいい人間ではない。なぜなら死んだ夫のことを忘れかけているから」ということへの申し訳なさやそれを義母に話せなかったことへの後悔で流す涙とは雲泥の差である。

『東京物語』の登場人物の「ほほえみ」にはより悲しみの深さが感じられる。

『東京物語』では紀子に託される義理の母親の形見の腕時計は、“忘却とあきらめ”の象徴でもあった。

実の息子や娘ではなく、血のつながらない次男の嫁に手わたされた腕時計。

小津安二郎監督の映画には消えていくものへの愛惜の念とともに、どこかそれらを微笑とともにうけ入れていく諦観があった。

一方で、山田洋次の『東京家族』の親子の断絶はそこまで深刻ではないように感じられる。

『東京物語』と違って次男の昌次は生きていて、東京をおとずれた母親と楽しいひと時を過ごすし、いずれ彼と結婚することになる紀子ももう「他人」ではない。

母親が死んでしまうのは『東京物語』とおなじだが、そこには家族がバラバラになっていく悲しみよりも、親の死を乗り越えてまたそれぞれあたらしい生活を営んでいくだろう子どもたちの姿が肯定的に描かれている。

父親が最後に紀子に語る「あれは母親に似て優しい性格だったんだな」という台詞でもわかるように、昌次の存在はまさに家族をつなぎとめる役割を果たしている。

オリジナル版ではすでにいなかった次男を重要なキャラクターとして登場させた山田洋次監督には、昌次と紀子は東日本大震災の被災地でのボランティアで出会った、という設定にしたことからも、彼ら若者に希望を託したい、という想いがあったのだろう。

周吉の亡き旧友・服部(『東京物語』では健在でいっしょに居酒屋で呑んでいたが、ここでは死んだことにされている)の母親が震災で亡くなった、という、いささか強引なきらいもある場面をあえて入れたのも、「家族の死」というものを描くときに監督にとってあの震災がけっして無視できないものだったからに違いない。

そういう意味で、「なぜ、いま『東京物語』なのか」という疑問に対する山田洋次なりの回答となっているのかもしれない。


ただ、すでに多くの人たちが指摘しているように、登場人物たちの年齢の設定にかなり違和感があるのは否めない。

吉行和子と妻夫木聡は母親と息子というより祖母と孫に見えるし(息子は自分のカノジョとの出会いについてあんなに屈託なく母親には話せない気がする。ちなみに母親は68歳という設定だが吉行和子の実年齢は77歳)、72歳という設定の周吉は演じる橋爪功とほぼ同世代だが、2013年現在の70代初めの男性にしてはあまりに老けすぎている。

おそらく1950年代の70代と現在のそれとでは、肉体的にも精神的にも20歳ぐらいひらきがあるんじゃないだろうか。

小津安二郎監督は60歳でこの世を去ったが、山田洋次監督は現在81歳。

しかも小津監督が『東京物語』を撮ったのは亡くなる10年前だから、まだ50前だったのだ。

小津監督が老成していたともいえるが、それだけ時代が違っていたということ。

あの老父のかっこうや物腰は、むしろ戦時中に兵隊に行っていた僕の祖父ぐらいの世代の人のものだ。

僕の祖父は3年前に89歳で亡くなっているから、橋爪さんとは年はだいぶ離れている。

周吉はまだ結婚する前に妻と『第三の男』を観た、といっていたが、『第三の男』が日本で公開されたのは1952年。

そうすると現在72歳の周吉は11歳ぐらいで将来の妻とともにジョセフ・コットンオーソン・ウェルズが出ていたあの映画を観たわけかw

まぁ、リヴァイヴァルなのかもしれないけど、よーするにこれは現在81歳の山田洋次監督自身の青春時代のエピソードなんだろう。

だから登場人物の年齢が合わないのだ。

若い俳優を使って現代を舞台に、でも『東京物語』のときとおなじ年齢設定で押しとおして、しかも山田洋次監督の世代の記憶もかさねているから、この『東京家族』に出てくる家族たちはいったい何歳で、これはいつに撮られたいつの時代の映画なのかよくわからなくなっている。

まぁ、お年寄りの話を聞いているようなものだ、と思えばいいのかもしれないが。

小林稔侍が演じる周吉の旧友・沼田にしても、やはり現在71歳の稔侍さんには老人というイメージがわきづらく、まるでわざわざ老け役を演じているように見える。

『東京物語』の現代版リメイクというよりも、パロディに見えてしまう。

『東京家族』では『東京物語』の登場人物の口調までも微妙に真似ているけれど、そういう部分まで似せる必要があったのかどうかはかなり疑問。

多くの人が違和感をもったのはまさにそういう演出なのだから。

しかも、小津作品のあの独特の口調は台詞のテンポを考え抜いて編集のリズムなどと関連付けて演出されているので、ただ単に役者に正面むかせて棒読みさせてみても意味がないんである。


長々とこの映画における僕の「違和感」の話をしてますが、それでも僕はこの映画を嫌いにはなれないんだな。

それは最初は違和感があった橋爪功のお爺さんに、だんだん亡くなった自分の祖父の姿がダブってきたから。

あの目を見開いて相手を見すえてものをいったり、黙ってテレビを観ているときの風情なんかは、ああいう感じだったもの、俺の爺ちゃん。

ウナギ食べながら次男と将来の見通しについて話をするところは父親っぽかったけど。


この映画については、ネットでほかの人たちの感想を読んでみると、けっこうクソミソにケナしているものもある。

「演出が古臭すぎる」「この映画のどこがいいのかまったくわからない」「老害」etc.。

そういいたい気持ちもわからなくはないんだけど、でも別に山田洋次の映画が若手の才能ある監督たちの芽を摘んでるわけじゃないんだし、やっぱりこの監督さんの映画はいまではその1本1本が貴重だと思うんだけどな。

僕はこの『東京家族』で描かれた、誰もがいつかかならず経験する「家族の死」を観ながら、祖父母や親の姿を思い浮かべてちょっと涙ぐみました。


全体的に演出が古めかしくても(意識的に小津作品に似せてるところもある)そこにあざとさはなくて、BGMがバンバンかかるなかで延々親のなきがらにすがって泣きわめく類いの愁嘆場はない。

しかも、母親を荼毘に付したあとで夜に昌次が部屋でいっしょに寝ようとすると紀子が別の部屋に移動するやりとりなど、オリジナル版にはなかった種類のユーモラスなシーンがあったり。

『東京物語』では中村伸郎が演じていた長女の夫をこぶ平…いや林家正蔵が演じていて、この夫は高校生のときに実の父親を亡くしているため、義理の父親である周吉に対して「理屈っぽいから苦手」といいながらもどこか好感をもっている。

義理の母親の死にひとり涙を流す彼の姿はよかっただけに、彼と周吉たちとのやりとりをもうちょっと観ていたかった。

せっかく周吉を近所にできた温泉に連れていくという展開があったんだから、湯船にゆったり浸かりながらふたりが会話する場面があってもよかったのでは。

紀子が義理の母親が亡くなって昌次の家族とともに彼らの故郷に行ったときに、会ったばかりの人々とまるで昔から知ってる親戚のように親しげにしているのもちょっと不自然で。

あんなに人づきあいが得意なら昌次の父親とだって打ち解けられるんじゃないだろうか。

そして予告篇にもある、最後に紀子が涙を流す場面。

クライマックスなのにあれはちょっと雑すぎる気がした。ものすごく記号的な「泣き」の演技に見えてしまった。

山田洋次は蒼井優を絶賛しているらしいけど、彼女は繊細な演技だってできる女優なのだから、あそこはもっとこまやかな演出をしてほしかった。


これは『東京物語』でもそうなんだけど、ちょっと説明っぽい「ジジィのボヤき」の場面もある。

周吉は居酒屋で酔っ払って「このままじゃいけん」というが、具体的になにがいけないのかよくわからない。

子どもたちは自分たちをおいてみんな東京に出ていってしまった。

では、子どもたちが故郷に帰ってくれば問題は解決するのか。

この映画をとおして、山田洋次が「このままではいけない」と感じたのはどういうことなのだろうか。

ちょっとあまりに漠然としていて僕にはよくわからなかったが、震災を経験したこの国で「家族の大切さ」というものが見直されつつあることはたしかだろう。

『東京物語』では、笠智衆演じる周吉の代わりに友人の東野英治郎が子どものことをボヤくが、周吉は「それは親の欲目じゃ」といってなぐさめる。しかし彼もまた息子たちに対して失望している。

1953年の時点ですでに「しょうがない」といわれていたことをいま一度見直してみよう、ということなのかもしれない。

もっとも『東京物語』の居酒屋の場面では、“親子の情”のことではなくて子どもたちの“出世”について語られているのだが。

『東京物語』で周吉は長男が“町医者”にすぎないことに不満を述べるが、これが現在ならば息子が医者で家庭ももち家族がみな健康ならばけっこうなことで、それに不満を感じるとすればよほど世間とズレている。

これほど時代は変わったということか。

『東京家族』では、西村雅彦演じる長男の幸一から同居をもちかけられた周吉は、「東京にはもう行かん」といって断わる。

おもえば『東京物語』も『東京家族』も、題名に「東京」とつけながら舞台となる東京はけっして良く描かれてはいない。

むしろ老いた父親を捨てていく冷たい町のような印象を残す。

『東京物語』で周吉は尾道で香川京子が演じる次女と同居していたが、『東京家族』で独りになった周吉の世話をするのはとなりの家の少女である。

時代が変わっても変わらないものがあるとすれば、それは「人と人のきずな」の大切さだろうか。


親と子ども、親と息子の恋人、老人と少女が「ありがとう」と挨拶を交わす。

感謝をこめての「ありがとう」。

別れの挨拶は、はじまりの挨拶でもある。


今年は『東京物語』の公開から60年、小津安二郎監督の没後50年の年である。

偶然か意図的にかは知らないが、その節目の年にこの『東京家族』は公開された。

映画の末尾には「この映画を小津安二郎監督に捧げる」という字幕が入る。

はたしてこの映画は現代の『東京物語』となりえたのだろうか。


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