日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

 
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html


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清国に対して、日本は1871(明治4)年、日清修好条規・通称章程などを結んだ。同年、台湾に漂着した琉球漁民が原住民に殺される事件がおこった。

清国は台湾を「化外の地(けがいのち)」として、その責任を取ろうとしなかったので、事件の処理をめぐって交渉は難航し、1874(明治7)年、日本政府は西郷従道(つぐみち・1843~1902)のもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)。

筆者:) 化外の地 ↓


この事後処理のために、大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス公使ウェールズの調停もあって、清国は日本の出兵を義挙として認め、償金50万両を支払って解決した。

17世紀初頭以来、琉球は薩摩藩(島津氏)の支配下にあったが、名目上は清国にも属し朝貢するという両属関係にあった。

明治政府は琉球を日本の領土とする方針を定め、1872(明治5)年には琉球藩をおき、琉球王尚泰(しょうたい・1845~1901)を藩王として華族に列し、ついで1874(明治12)年には軍隊を派遣して廃藩置県を断行し、沖縄県を設置した(琉球処分)。

清国は琉球に対する宗主権を主張してこれに強く抗議し、前アメリカ大統領グラント(Grant,1822~85)は、宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする調停(先島分島案)を示したが、清国側はこれを認めなかった。

その後も紛争は続いたが、日清戦争における日本の勝利によって、琉球帰属問題は事実上、日本の主張通りに解決した。

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前アメリカ大統領グラントの調停案は日本側もダメですね。「宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする」。この調停が成功して且つ日清戦争がなければ、尖閣諸島は?・・・・、想像するのはやめておきますw
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【下関条約】
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相・陸奥宗光外相が全権委任となり、清国全権李鴻章とのあいだに日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって清国は日本に対して
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①朝鮮半島の独立の承認

②台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲

③賠償金2億両(日本円で約3憶一千万)の支払い

④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港・租界での治外法権などの承認

などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。

それまで‘眠れる獅子’といわれていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国再分割に乗り出した。

【三国干渉】
なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちに、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本政府へ申し入れてきた。

これがいわゆる三国干渉である。

日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。

国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで、軍備拡張と国力の充実をはかった。
 
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三国干渉に当時の日本人はみんなビックリしたでしょうね。「それはないだろう?」と。欧州諸国はふだん仲が悪くても利害があえば簡単に結託します。ヨーロッパの国同士は戦争ばっかりしてますから、平気でこのくらい狡猾に寝首を掻いてきます。

英仏はロシア嫌いですが、英仏も長年のライバル関係にあり、フランスは、せっかく掘ったスエズ運河を英国資本に横取りされた腹いせに、ロシアのシベリア鉄道に投資したのです。国民性も天邪鬼と揶揄されますし。

ドイツとイタリアは訳あって統一国家の形成がおくれました。明治維新と同じ時期です。英仏らのように植民地経営に乗り出したいのですが、もう残っているところがあまりない。ドイツは山東半島に進出を企てていましたから、対岸・目と鼻の先の遼東半島日本領有は困ったというわけです。

ロシアは三国干渉に応じた清国に対し、お礼にシベリア鉄道を満州経由にしました。このとき露清密約が締結(1896)されてます。この密約は日本に対する軍事同盟の性格を持っていました。

この頃、自国大陸にフロンティアがなくなったアメリカは、中米と太平洋に進出しハワイ王国を併合・スペインと戦争してフィリピンとグアムを略取しました。(これに日本が口出ししなかったのは、のちの桂-タフト協定につながるなにかがあったのだと思います。)

ドイツは1898年に宣教師殺害事件を口実に山東半島の青島(チンタオ)を租借します。これに対抗する形でロシアは日本から掠め取ったような遼東半島の旅順・大連を租借します。念願の不凍港です。ドイツとロシアに対抗してイギリスが九竜と威海衛(いかいえい・山東半島の東端)を租借します。

もう一触即発状態でした。威海衛(いかいえい)は重要な軍事拠点であり、日清戦争の戦闘で有名な場所です。まんまと英国さんに取られてしまいました。
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この状態からドイツだけハバにされたのが第1次世界大戦の東アジアでの勢力図になります。
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【日英同盟】
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府内には、2つの意見が生じた。

1つは伊藤博文井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認める代わりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。

これに対し、桂太郎首相・小室寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた。

勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず、‘光栄ある孤立’を保ってきたイギリスではあったが、当時バルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。

協約の内容は、
1)清国と韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国、およびイギリスの清国、における政治的・経済的利益を互いに擁護し、

2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、

3)さらに2国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる。

というものだった。
(後略)
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3)は、ロシアに加担する国があったら「おれら英国紳士が出てって相手するよっ」という暗黙の脅しです。露清の密約なんぞ英国諜報部につつぬけでした。日本としては清国かドイツを巻き込んで英国の参戦に持ち込みたかったな。どうなっていたでしょうか?



今回の記事の画像の引用元
2枚目→http://heiwa.yomitan.jp/4/3206.html
3枚目→http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-date-20110103.html

今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。

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