日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

 
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html


日清戦争は日本の圧勝でしたが、遼東半島の領有をめぐって三国干渉で日本が露仏独と対立しまして、それが日露戦争の簡単な要因です。次回記事でまた詳しく。また、日露戦争に至る経緯を語る際に日清戦争後の清国について書いておく必要があると判断しました。なるべく簡潔に書いておきます。

【戊戌の政変】
清国を改革して近代化する動きが若き清国皇帝・光緒帝(1858~1927)のもとで起こりましたが、西太后(1835~1908)ら保守派のクーデターによってつぶされました。光緒帝は幽閉され、変法派(改革派)の多くは日本など海外に亡命しました。

【義和団事件(北清事変)】
山東省で結社された宗教的武術的秘密結社である義和団が清国民衆の熱狂的支持を受け民衆とともに暴動をおこしました。スローガンに「扶清滅洋(清国を扶け西洋人を撃滅する)」を掲げた暴動は拡大し、首都北京に大挙して入城し(1900年6月)、義和団と暴徒は誰彼となく外国人を襲い列国公使館を軒並み包囲しました。

そして実は、西太后ら保守派の清国政府が陰に日向に義和団と暴徒を煽っていました。(筆者注:)なんか現代にかぶる(ーー゛))

【北京議定書】
$ Egi Shun,s  BLOG欧米列強は清国在留同胞の保護を名目に軍隊を派遣し、義和団の乱を徹底的に鎮圧しました。

これを8カ国共同出兵といい連合軍のはしりとなりました。
(画像、左より、英・米・露・英領インド・独・仏・オーストリア=ハンガリー・伊・日の兵士)

1901年清国は8カ国と北京議定書を締結し、莫大な賠償金(9億8千両)を支払う羽目になり、また国内に列強国守備兵が常駐することを認めさせられました(北京駐兵権)。  

    北京・紫禁城内の連合軍 ☟
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 ロシアは出兵していた10数万の軍隊を撤退させず満州にとどめ事実上満州を軍事占領。そりゃ日本ゲキ怒だよ!
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【日露戦争】
ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902(明治35)年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。

日本国内では、対露強硬論の気運が高まっていたが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。

ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六時報』など発行部数が一日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。

そして、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを激しく弾劾しはじめた。

(注)
①ラジオの日本初放送は1925年でこの当時ラジオ放送はない。メディア媒体は新聞などの出版物と口コミのみ
②新聞のやり玉となった反開戦派の代表格は桂太郎首相と伊藤博文元老であった。

日本側の主たる狙いは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的・政治的優先権を確立することにあったが、ロシア側はこれを全く認めず、日露交渉はまったく行き詰った。

日本は1904(明治37)年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻略と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争を開始した。
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強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運を賭けた戦いであった。

日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測した。

そして、その巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854~1936)日銀副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集した。

また、金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)に和平の仲介を依頼した。
 
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日露戦争の戦費は約17億円で当時の国家予算歳出分の数年分にあたります。そのうち8億円が英米で募集した外国債でしたが、実はロシアも外国債を発行して戦費に充てていました。

開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外債発行はロシアに比べて不利な条件でしか発行できず、募集もままなりませんでした。ところが戦局が日本優勢になってくると状況が逆転しました。
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立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治(ロマノフ王朝)がおこなわていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。

そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。

陸軍は遼陽・沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数カ月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジア最大の海軍基地である旅順をおとしいれ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。$ Egi Shun,s  BLOG

また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847~1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。

(右画像)
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将


当時、ロシア国内では、ツアー
(ロシア皇帝)の政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルグで血の日曜日事件がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。

しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。

そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。
 
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血の日曜日事件は、のちにロシア第一革命の発端とされました。映画にもなった‘戦艦ポチョムキンの叛乱’がこの年の6月。↑クリックで説明文にとびます。

バルチック艦隊が出港したのは1904年10月15日です。これより遅れると港が凍って出港できなかったんですかね?w さて、この当時ヨーロッパからアジアに至る貿易航路の制海権は大英帝国がほぼ掌握していました。日英同盟協約に基づき英国は動きます。

$ Egi Shun,s  BLOGジブラルタルは現在でもイギリス領でイギリス軍が常駐しています。

のちに「3C」と呼ばれるカイロ(スエズ運河)・ケープタウン(喜望峰)・カルカッタ(インド)もイギリス領でした。

シンガポールとマラッカ海峡もイギリス領でした。

海上封鎖はしていません。

軽量級の軍船はジブラルタルからスエズを通っています。ただし航路上にあまた有るイギリス領植民地の港には一切寄港できなくしたのです。これは強烈に効きました。

当時のロシアの友好国だったフランス領の寄港地は少なく、バルチック艦隊は補給・修理・休息もままならぬまま、半年以上もかかって日本海に到達しました。艦も兵も疲弊しきっていたのです。

むろん、このことによって、連合艦隊の偉業ならびに東郷平八郎元帥の名声に傷がつくようなものではありません。大国ロシアの屈強な艦隊に開国から50年しか経過していない新興国日本の海軍が圧倒的勝利をおさめたことは世界を震撼させました。

日露戦争に日本が勝利したことは、日本国内および世界中に多大な影響を及ぼしました。
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【日露講和会議】
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の斡旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。
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$ Egi Shun,s  BLOGアメリカのポーツマスで開かれた日露講和会議は、ロシアが強い態度に出たため難航したが、1905年9月、日本側首席小室寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ(Vitte,1849~1915)との間で、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。

これによって日本はロシアに、

(1)韓国に対するいっさいの指導・保護・監督権の承認

(2)旅順・大連の租借権と長春・旅順間の鉄道およびその付属の権利の譲渡

(3)北緯50度以南の樺太の割譲

(4)沿海州とカムチャッカの漁業権の承認


などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。

こうして、日本は約110万の兵力を動員し、死傷者20万を越すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。

【日比谷焼打ち事件】
しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。
$ Egi Shun,s  BLOG東京では河野広中ら反政府系政治家や有力新聞①の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ民衆が、政府高官邸・警察署交番・講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会・などを襲撃したり、放火したりした。

(画像:1905年9月5日、東京日比谷公園でひらかれた講和条約反対の決起集会)

いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎮圧し、講和条約批准に持ち込んだ。

①『東京朝日新聞』『大阪毎日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相を‘探露’(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあるほどであった。

日露戦争は、世界列強の複雑な利害関係を背景として行われただけに、国際政局に大きな影響をおよぼし、とくに東アジアにおける国際関係は大きく変動した。

東アジアの片隅にある有色人種の小国日本が、予想に反して白人の大国ロシアとの戦いに勝利を収めたことは、白人不敗神話を打ち破って世界に衝撃を与え、中国・インド・トルコ・フィンランドなどの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。

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今も昔も新聞メディアというのはあらぬ方向に大衆を煽るものなのですね。気をつけましょう。この当時まだラジオ放送はありません。マスメディアと言えば新聞などの出版刊行物しかなく、拡散は口コミでした。(日本でのラジオ初放送は1925年)

極東アジアでの南下が挫折したロシアは、またしてもヨーロッパでの南下に力を入れ始めます。そしてトルコで民族運動が高まったことにより、オスマントルコ帝国の力が更に削がれました。この2点は第一次世界大戦の遠因になっています。

英国留学中のネル―少年(インド初代首相・当時16歳)は日露戦争の日本の勝利に大きな感銘を受け、日本に関する新聞記事切り抜き、また、日本についての英文の著作を好んで読みふけったそうです。

フィンランドは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15)で、スウェーデン王国の領土からロシア帝国の領土になってました。フィンランドの独立はロシア革命後(1917)で、ロシアへの対抗から第二次世界大戦では枢軸国側でした。あまり知られていません。

日露戦争の勝利によって、日本は欧米列強に認められ、列強国の仲間入りを果たしました。そのことを如実に現わしているのが、明治維新から日本が取り組んできた『不平等条約の改正』の実現です。
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【条約改正】
第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光(1844~97)のもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。


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$ Egi Shun,s  BLOGイギリスは、シベリア鉄道敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要があった。

そこで憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大つつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じた。

1894(明治27)年7月、日英通商航海条約の締結である。
(日清戦争の開始と同年同月です)

その内容は領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。

イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。

1911(明治44)年、改正条約の満期を迎え、外相小村寿太郎(1855~1911)は再び交渉を始めたが、日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに列国の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した。


(画像上:陸奥宗光 画像下:小村寿太郎/日本が不平等条約を結んでいたのは、英米仏露蘭)
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列強国の仲間入りを果たした日本に対して、欧米列強国の日本に対するアタリは強くなっていきます。さながら『おい日本!これからは本気出して対応にあたるからな!!』です。

日本列島防衛線の構築という初期の目的は達成されましたが、欧米列強国のあいだの仁義無用の熾烈な争いに日本は踏み込んでいかざるを得なくなってしまいました。そういう時代だったのです。

この時代、白人国家以外で独立の体裁を守っていたのは、日本・タイ・トルコ・イラン・エチオピア・リベリアだけです。イランに関してはのちに体裁だけで半植民地化されます。またエチオピアもイタリアに侵略されてます。
リベリアは特殊な例で、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国されました。)


  ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像の引用元
6枚目/外務省公式HP
7枚目/http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html

そのほかはウイキペディアより引用しました。
今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。

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