日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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当連載記事の目次 ☟
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前回の記事で沖縄・南西諸島を巡っての、日本と清国(中華帝国)の領土防衛戦のせめぎ合いを書きました。朝鮮半島あるいは北方でも領土防衛戦のせめぎ合いが、もちろんのことありましたので、この記事で書いていきます。

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【朝鮮半島】
明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。

欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危なくなると恐れた。

そしてそれ以前に
(筆者注:ロシアに朝鮮半島を奪われる前に)日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。

征韓論や日朝修好条規の締結もそのあらわれであった。

【征韓論】
朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒絶した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬姿勢をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。

欧米から帰国した岩倉具視使節団一行から強く反対され、征韓論派の西郷隆盛らの参議は総辞職した。

(明治六年の政変)。

国力を高める方が先であるという使節団の判断。
(1873年)

【日朝修好条規】
日本の軍船がソウル漢江近郊の江華島で朝鮮から砲撃を受けた江華島事件をきっかけに、李氏朝鮮を開国させて日朝で結ばれた条約。李氏朝鮮側にとって不平等条約である。また朝鮮は同様の条約を欧米列強とも締結した。(1876年)

日本のこのような朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、しだいに対立を深めることになった。李氏朝鮮内では日本派と清国派の激しい対立抗争が激化するが、ややこしいので割愛。別連載の朝鮮半島史に詳しく記しました。

【福沢諭吉の脱亜論】
福沢諭吉は、朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の力で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。

しかし、1884(明治17)年、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。

福沢は翌年寄稿した社説「脱亜論」にて、「近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはない。」と論じた。

そんなわけで
日清戦争(1894~5)、日露戦争(1904~5)、となりました。

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なんでロシアが朝鮮半島に?ということなのですが、冬でも凍らない不凍港(軍港・貿易港)がどうしても欲しいというロシアの伝統的悲願のためです。ロシアは清国の弱体化に付けこみ、1960年に沿海州を獲得、ウラジオストック港を建設して東方進出を企みます。ウラジオストックとはロシア語で『東方の支配』という意味です。


日本・清国・ロシア、は朝鮮半島をめぐって戦争になりました。今から思えばみんな国策を誤りましたねw 関わってはいけない。

日清戦争は日本と清国の戦争、日露戦争は日本とロシアの戦争、なのですが、朝鮮半島は主戦場になりました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は明国(中華帝国)を見据えてのものでしたが、このときも朝鮮半島は主戦場になりました。

1910年から1945年までは、日本に併合され、日本統治時代となりました。

ついでにいうと、朝鮮戦争でも半島全土が戦場になりました。

このあたりは、日本に対してただならぬ恨みを持つ韓国人・朝鮮人の民族性に於ける背景とも取れますが、だからといって反日のためならなにをやっても許される「反日無罪」という考え方はとうてい理解できるものではありません。

また「千年怨む」という朴槿恵-韓国大統領の発言(2013.3月)に至っては、国際社会でも失笑物でしょう。

それではロシアとの関係で北方のほうもみていきます。ついでに太平洋方面も

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【樺太と千島列島】
ペリーについでロシアのプチャーチンも再び来航し、下田で日露和親条約(1854年)を締結した。
国境については千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島(ウルップ島)以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として境界を決めないことにした。

樺太(現・サハリン)の領有問題は、明治政府も引き続いて交渉にあたっていた。

ロシアの南樺太への進出が強まるにつれ、政府部内には北海道開拓に全力を注ぐために樺太を放棄しようという意見が強くなり、樺太・千島交換条約(1875.明治8年)に調印して、樺太全土をロシアにゆずり、その代償として千島列島全島を日本領と定めた。
(筆者注:のち日露戦争の講和-ポーツマス条約で日本の南樺太領有が決まる)

【小笠原諸島】
小笠原諸島については、1876(明治9年)、アメリカ政府がそれが日本領であることを承認して解決をみた。

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当時まだ航空機が発明されていません。20世紀になってからです。当時は小笠原諸島のような離島は軍事拠点として重要視されなかったのでしょう。補給港・避難港としてならば日本を開国させているのでそれで十分とアメリカは判断したと思います。でなければ簡単にアメリカが折れるわけがない。

明治維新の日本がこれほどまでに防衛線の構築に躍起になった理由は開国です。

こちら ↓ 





1853年!!  黒船来航!! ドド~ン!!



江戸幕府はペリ―艦隊にいきなり江戸湾近くの喉元に軍船で乗り付けられ、翌年に有無をいわさず開国させられてしまったのです。

アメリカ合衆国大統領の親書を携えたペリー東インド艦隊司令長官
による【力による現状変更】でした。

二度と外国にこんなことをされてはかなわんということなのです。

東インド会社が引っ掛かりますか?

ペリーさんはインドにあったアメリカの東インド会社から東へ航路をとって来航してきました。当時太平洋航路はまだありません。米-メキシコ戦争の結果カリフォルニアがアメリカに割譲されたのは1848年です。(わずか5年前)。
そのあと南北戦争です。

ベリー艦隊-黒船来航は突然起こったように感じますが、そうではありません。外国船の来航はかなり以前からあり、江戸幕府もそれなりに対応してきました。ですが、現状認識がムチャムチャ甘かったのです。まさかこんな強硬手段にでられるとは!?でした。

ゆえに私は、現在の外交安全保障に照らし合わせても、

「憲法9条があるから外国の軍隊が攻めてくることはない」
「たとえ攻めてこられても自国の自衛権のみで対処できる」

という意見にはまったくもって賛同できません。傾向と対策を練り、充分な備えをしないといけないと思います。備えがないとつけこまれます。共通の敵国にはその国の脅威に晒されている国同士が同盟を結んで対処するべきです。

幕末・明治維新の先人たちの国防の努力には格別の尊崇と感謝をしています。しかし次もまたあんなに都合よく旨くいくとは限らない。欧米以外のアジア・アフリカの国のなかで、欧米に武力干渉されたのに、自力で近代化を果たし独立を守ったのは日本だけです。

つぎの記事で江戸時代末期の外国船来航と江戸幕府の対応について書きます。幕府も長年それなりに頑張ってはいたのです。ですがアメリカの武力干渉による強制的開国という事態を避けられなった。



 ~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~


今回の記事の画像の引用元
1.6.7枚目→ウイキペディアより
上記以外の画像→手持ちの詳説日本史研究(山川出版社)より


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