朝鮮半島近現代史研究③~「甲午農民戦争から日清戦争へ」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

タイトルの「甲午農民戦争」は朝鮮半島側では「東学党の乱」と呼ばれます。あまり有名ではないので、ウイキペディアをキャプしておきます。

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「甲午農民戦争」「日清戦争」は、世界史・日本史・りょうほうの教科書に記述かありますが、やはり詳説世界史研究のほうが簡潔で分かりいい文章なので、そちらから引用します。


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。
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<まずは東学党ってどういう連中なの?から・画像は全琫準> 404頁参考
【東学】 
東学とは李朝末期の1860年ごろ、没落官人(両班)出身の雀済愚(1824~64)が、キリスト教(西学)とともに進出してきた欧米列強が朝鮮の伝統的社会を侵食しつつある状況を憂慮し、これに対抗するために創始した新興宗教で、儒・仏・道3教と民間信仰を融合させ、一部キリスト教要素も加えたものといわれる。

李朝政府は、東学を「邪教」として弾圧し、雀済愚は処刑されたが、多くの窮乏農民や没落官人が東学に救済の希望をよせ、2代教祖雀時亨(1827~98)のもとで、一大教団に成長していった。東学は排外主義や政治腐敗への素朴な批判のほか、お札やまじないによる無病息災の祈願といった土俗的要素を濃厚に有していた。

このような東学に率いられた甲午農民戦争は、欧米列強の圧迫に対する民衆の本能的な民族主義の爆発と、そこに含まれる保守的・迷信的要素という点で、清末の義和団事変とよく似た性格をもつといえる。

【全琫準】404頁・人物
全琫準は朝鮮南部全羅道の下級役人の家に生まれ、父も農民一揆を指導して刑死したという経歴をもつ。
$ Egi Shun,s  BLOG小柄であった彼は「緑豆(ノクト)」の幼名で呼ばれ、農民に深く敬愛されていた。

1894年12月、全琫準は近代兵器で武装した日本軍に決戦を挑んで敗れ、処刑されたが、彼の名は死後も民衆に追憶され「緑豆と青鳥」などの動揺となってうたいつがれている。
 
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「儒教・仏教・道教・3教と民間信仰を融合させ、一部キリスト教要素も加えた」って???
得意のパクれるものはぜんぶパクって、グッチグッチヤにかき混ぜてって、得意のあれやん!!(笑)
ようするに教祖さまが経典なんだね。

全琫準の写真って初めて見た時に「誰が全琫準なんやねん?」って思ったけど、担架にしかみえない神輿に乗っている人がそうらしい。「写真撮るときはもう少し良い身なりにしろよ」と思ったけど、修正してないだけなんだと納得しました。前の記事の閔妃の写真って顔の部分が取って付けたみたいでしょ?
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404頁本文
【甲午農民戦争】
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1894年4月、東学党門下の全琫準(ぜんほうじゅん 1854~95)が地方官の暴政に対し農民を率いて挙兵した。

すると、「逐洋斥倭」(ちくようせきわ・西洋と日本を排斥する)をスローガンに掲げる東学党のもとに多数の農民が参集し、南部全羅道を中心に大農民反乱へと広がっていった。

これを甲午農民戦争(東学党の乱)と呼ぶ。

甲午農民戦争がおこると、李朝政府は清に軍隊の派遣を要請し、清軍が朝鮮に出動すると、これに対して日本もただちに出兵をおこなった。


ここにいたって、反乱が日清両国の朝鮮侵略を招く危険性を察知した李朝政府と東学党は、同年6月に停戦協定を結んだ。

しかし、事件を朝鮮半島における勢力挽回の好機と考える日本政府は、清国に対して甲午農民戦争の日清両軍による徹底鎮圧を提案し、李朝政府には内政干渉的要求を突きつけるなど、事態の紛糾と拡大化に努めていった。

日清両軍による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に拒否されると、7月末、日本は清軍に奇襲攻撃をかけ、ここに日清戦争が勃発した。

(中略)
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陸海とも軍備の近代化で先行していた日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、(中略)両国は講和した。

(後略)
 
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東学党のスローガンからも伺えるように、欧州の列強国も李氏朝鮮にさかんに干渉をしていました。1887年(明治20年)にイギリス艦隊が巨文島を占領したことなんか教科書に書いてないです。英国の行動は南下するロシア軍への牽制ですけどね。

甲午農民戦争(東学党の乱)がいったん沈静化したあと、清朝はそれ以上李氏朝鮮に深入りしませんでした。長年朝鮮半島を属国にしていただけあって中華王朝である清朝は朝鮮の連中の扱いに慣れてますね。日本と共闘なんてのもまっぴらごめんだったのでしょう。

ババは引かないに限ります。

日本側としても講和で清国に対してこのババを独立国として承認させました。このとき(1895年)清国に領土割譲させたのは台湾や遼東半島など清国そのものの領土だったのです。

また、このような他国の内乱への軍事介入に対しての是非を問う声もあるでしょうが、現代でもやってる国があるでしょうに。それゆえ、この時代の列強国にとってはあったりまえの常套手段でした。

李氏朝鮮側の立場で言えば「清国からの独立など大きなお世話、ウリナラは現状維持がいい」という論調だったかもしれませんが、それムリですから。日本が積極的に干渉してなかったら英国とロシアによって分割されたんじゃないですか?まぁ「たられば」はやめときましょう。

日本は琉球・台湾での確執がありましたから、どうしても清国とは一戦交えて白黒はっきりさせたかったのです。あくまで日清戦争であり、その主戦場が朝鮮半島になりました。そして日清戦争における日本の圧倒的勝利は世界に衝撃を与え、列強国による世界再分割を加速させていきます。

  ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像の引用元

地図画像→(手持ちの教科書ページより)
全琫準 →ウイキペディアより

もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。

wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争
wikipedia.org/wiki/全琫準
wikipedia.org/wiki/日清戦争





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