朝鮮半島近現代史研究②~「壬午軍乱と甲申事変そして脱亜論」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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355~356頁本文

明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危うくなると恐れた。

そして、それ以前に日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。征韓論や日朝修好条規もその表われだった。

しかし、こうした日本の朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、次第に対立を深めることになった。日清戦争の主要原因は、朝鮮半島をめぐる日清間のこのような政治的・軍事的対立にあった。
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ねっ、序章や①で私が書いたことが、歴史教科書にもビシっと書いてあるでしょう。タイトルの「壬午軍乱」と「甲申事変」は、世界史・日本史・りょうほうの教科書に記述かあります。詳説世界史研究のほうが簡潔で分かりいい文章なので、そちらから引用します。

詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。
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<画像は閔妃と大院君> 404頁本文

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【壬午軍乱(壬午政変)】
日朝修好条規の締結は、李氏朝鮮の宗主国の立場にあった清を刺激し、清朝側でも李鴻章が中心となって朝鮮半島に対する干渉政策が推進された。

おりしも李朝内部では複雑な政治抗争が展開され、これに絡むかたちで朝鮮半島における日・清の対立が深まっていった。

まず1882年、当初日本に接近して内政改革を進めていた閔妃(びんひ-ミンヒ 1851~95,国王高宗の皇后)派の政府に対し、保守派の大院君(1820~98,国王高宗の父)が軍隊を扇動し、日本公使館が焼き打ちされ、日本人軍事顧問などが殺された。

李朝に対する干渉強化の好機とみた清朝は、大軍を派遣して大院君を捕らえ、閔妃政権を復活させた。

これを壬午軍乱(壬午政変)といい、この事件後、閔妃派は急速に清と接近するようになった。


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まあなんというかかんというか?国王高宗の父と嫁のそれぞれの一族を巻き込んだドロドロでグチャクヂャの権力闘争ですな。閔妃派は最初は日本寄りで、つぎに清寄り、時代がさがるとロシア寄りになるんですが、その話はまた後の記事で。にしてもケツの軽い連中だ。

大院君と閔妃との抗争はこのあとも延々と続くんですが、ばかばかしいので割愛してしまうかもしれません。では教科書からの引用に戻ります。
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<画像は金玉均>  404頁本文

【甲申政変(甲申事変)】
このように清の勢力下で李朝の安全維持をはかる一派を事大党と呼ぶが、これに対し、金玉均(1851~94)・朴永孝(1861~1939)ら急進的改革による朝鮮の近代化をめざす一派は独立党と呼ばれ、日本の明治維新をモデルとし、日本との提携をはかっていった。
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1884年、清仏戦争における清の敗戦に乗じ、独立党は日本の後援下に事大党政権打倒のクーデターをおこしたが、清軍の出動によって失敗に終わった。

これを甲申政変(甲申事変)という。独立党の指導者・金玉均は日本に亡命したのち、日清戦争直前に上海で閔妃政府の刺客に暗殺され、遺体はソウルに運ばれて晒された。

事件後、日清間に天津条約(1885)が結ばれ、両国の朝鮮半島からの共同撤兵や、非常時の出兵に際しての事前通告などが約されたが、朝鮮における日本勢力の後退は明らかであった。
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金玉均の遺体が晒し首にされている画像はウイキペディアにあるのですが、グロなので載せません。どうしても見たい人はここをクリックしてください。→グロ画像閲覧注意

こんなふうにgdgdになってきたところで出てきたのが福沢諭吉先生の脱亜論です。教科書にも載ってますから引用しましょう。
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404頁本文

【福沢諭吉の脱亜論】
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福沢諭吉は、壬午軍乱ののちの朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の手で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。

しかし、1884(明治17)年の甲申事変のとき、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。翌年3月、福沢は『時事新報』紙上に「脱亜論」を掲載した。

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その趣旨は、西洋諸国の急速な東アジアへの勢力拡張のなかで、西洋文明を取り入れて近代化しない限り国家的独立は維持できないという認識に立ち、近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。

このような脱亜論は、清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。

【自由民権派の強硬論】
甲申事変に際して、自由民権派は武力出兵を唱えて対朝鮮・対清国強硬論を説き、天津条約を結んで清国との衝突を避けた日本政府の外交を弱腰であると避難した。そして、急進派の大井憲太郎らによって、朝鮮から清国の勢力を一掃してその独立を達成させようとする運動が進められた。

こうしたなかで、日本政府は、朝鮮の国内改革を行って日本の指導のもとに独立させようという方針を次第に強めた。このように朝鮮をめぐる日清両国の利害の対立はますます深まり、両国間の空気は次第に険悪となった。

すでに日本政府は1880年代の前半から、清国との衝突に備えて、対外戦争に耐え得るように着々と軍備の改革と拡張を進めていた。
(後略)
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自由民権派というのは征韓論支持者が多いですからこうなりますね。板垣退助・後藤象二郎・江藤新平ら明治六年の政変で西郷隆盛とともに参議を辞職した人たちです。(副島種臣は参加してません)

朝鮮半島ってのは外圧や国難に際して絶対に国論がまとまらないですね。150年前からそうなんですね。いまも南北に分かれて戦争中で休戦ちゅうなうです。

日清の対立はもうお互い引くことが出来なくなってしまい、この時代ですから、戦争で決着付けるしかない状況になりました。この様子をほくそ笑みながらうかがっていたのがロシアンです。

  ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像の引用元
閔妃 →(こちらのサイトhttp://conservatics.blogspot.jp/2013/04/blog-post_4460.html)
脱亜論→(手持ちの教科書ページより)
ほかは→ウイキペディアより

もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。

wikipedia.org/wiki/壬午事変
wikipedia.org/wiki/甲申政変
wikipedia.org/wiki/脱亜論
wikipedia.org/wiki/自由民権運動



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