朝鮮半島近現代史研究①~「征韓論と江華島事件」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

まずは詳説世界史研究のほうから概要についてざっくり引用します。

詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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403頁本文

李氏朝鮮では) 1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策をつづける李朝にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実力者大院君(1820~98国王高宗の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否したが、やがて明治維新後の日本政府も、李朝に対して開国を要求するようになった。
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ほんとうは日本史の教科書からの引用だけで済ませようと思っていましたが、欧米列強も朝鮮半島に触手を伸ばしていたことが書いてなかったので、世界史教科書の記述を探すことになってしまいました。これは意図的なものでしょうか?

はるばる極東地域にまで航行してきてる欧米列強が朝鮮半島の李朝になんの圧力もかけないわけないでしょ?

ロシアの脅威の逼迫度において、日本は追いつめられていていちばん強硬な手段にでざるを得なかったのでしょう。英仏などはクリミア戦争で自国方面(ヨーロッパ)でのロシアの脅威は排除していましたから、極東に関しては様子見だったのだと思います。日本はババを引かされたんですよ。

詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

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332~333頁本文

幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬手段をもつてのぞむべきだとする征韓論が高まった。

(中略)

1873(明治6)年には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を実現させる方針を内定した。

(中略)
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しかし、1873(明治6)年9月、岩倉具視一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通・木戸孝允らは、あくまで内地の整備が先決であるとして征韓論に強く反対し、結局、同年10月、はじめの方針は取り消され、西郷ら征韓派の議員はいっせいに参議を辞職した(明治六年の政変)。

その後、朝鮮問題は紛糾を続けたが、朝鮮を開国させるきっかけをつかもうとした日本政府は、1875(明治8)年軍艦雲揚を派遣し、朝鮮の沿岸で測量を行うなど示威の行動をとった。
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同艦の艦長が飲料水を得ようと、首都韓城(現・ソウル)に近い漢江河口の江華島にボートで近づくと、同島の砲台から砲撃を受けた。

そこで雲揚は砲撃して砲台を破壊し、近くの島に兵員を上陸させて永宗城を占領した。これが江華島事件である。この事件をきっかけに、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、翌1876(明治9)年、日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。

日朝修好条規を結ぶために、日本は参議黒田清隆を全権使節として6隻の艦隊とともに、武力を背景に交渉をすすめた。ちょうど20年以上前、ペリーが来航して日本に開国を要求したのと同様の立場に立ったわけである。
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(中略)

この条約の締結によって朝鮮は釜山・仁川・元山を開き、片務的な領事裁判権や関税免税を日本に対して認めた。

こうして日本は朝鮮に不平等条約を押しつけたが、同時に、朝鮮を一つの独立国として清国の宗主権を否定する立場に立ったのである。

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李氏朝鮮がその後ほぼ同じ内容の条約を欧米列強(英米仏露など)とも締結したことを付け加えておきます。幕末の日本が日米通商修好条約と同じ不平等条約を英蘭仏露と締結したのと同様です。

この条約が不平等条約だというのは日本側も認めていました。事実、外務卿の寺島宗則はアメリカ公使ビンガムに「おはんたらが日本にやったのと同じようにやったとでごわす」と説明しています。

ロシアとの国境画定について追記しておきます。日露和親条約(1854)では<樺太は日露雑居地・千島列島は択捉島以南が日本-売撫島以北がロシア>とされていました。その後、千島樺太交換条約(1875)で、<樺太はロシア領・千島列島は全島日本領>となりました。

樺太を捨てることは、ロシアの脅威に邪魔されずに北海道開拓を行うための苦渋の選択でした。


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しかし、同じくロシアの脅威が迫っている李氏朝鮮は外国でしかも清国の属国です。日本がかわってロシアと交渉するわけにはいかないので朝鮮に開国してもらうしかなかったのですが、朝鮮がかたくなに拒むので、日本政府はこのような強硬手段に出ることになってしまいました。

これがよかったのか?悪かったのか?現在に至るまでこのババに苦しめられているのは因果な話です。

このとき日本が朝鮮やロシアと距離をおいて静観してたら?・・・。朝鮮半島でロシアvs英仏の軍事衝突になっていたかもしれまんし、その結果なんぞ想像もつきません。まあ『たられば』の話はこのくらいにしておきましょう。

もちろん現在では、この時の日本政府のやり方は国際的に通用しません。ペリーのやり方もね。でも現在でも堂々とやっている国家があるんです。それを、軍国主義・帝国主義・覇権主義って言うんですよ。 

『力による現状変更』とも言う。

        ~~おしまい~~


今回の記事の画像はすべてウイキペディアから拝借してきました。(4枚目は手持ちの教科書ページより)


もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。



wikipedia.org/wiki/征韓論
wikipedia.org/wiki/岩倉使節団
wikipedia.org/wiki/江華島事件
wikipedia.org/wiki/日朝修好条規


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