朝鮮半島近現代史研究④~「三国干渉と日英同盟-そのはざまの大韓帝国」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

あたりまえなのですが、朝鮮半島を中心に世界史・日本史・の教科書は記述・編纂されていません。なので時系列に沿って分かりやすく記述を並べるために教科書をあっちこっちしています。

このあたりから列強国による世界分割が最終段階に入りますから、あっちこっちの回数が増えるんですが、なるぺく分かりやすく引用して記事をおこしていきたいと思います。

詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。
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358頁参考
【下関条約】
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相・陸奥宗光外相が全権委任となり、清国全権李鴻章とのあいだに日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって清国は日本に対して
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①朝鮮半島の独立の承認

②台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲

③賠償金2億両(日本円で約3憶一千万)の支払い

④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港・租界での治外法権などの承認

などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。

それまで‘眠れる獅子’といわれていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国再分割に乗り出した。

【三国干渉】
なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちに、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本政府へ申し入れてきた。

これがいわゆる三国干渉である。

日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。

国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで、軍備拡張と国力の充実をはかった。
 
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三国干渉に当時の日本人はみんなビックリしたでしょうね。「それはないだろう?」と。欧州諸国はふだん仲が悪くても利害があえば簡単に結託します。ヨーロッパの国同士は戦争ばっかりしてますから、平気でこのくらい狡猾に寝首を掻いてきます。

英仏はロシア嫌いですが、英仏も長年のライバル関係にあり、フランスは、せっかく掘ったスエズ運河を英国資本に横取りされた腹いせに、ロシアのシベリア鉄道に投資したのです。国民性も天邪鬼と揶揄されますし。

ドイツとイタリアは訳あって統一国家の形成がおくれました。明治維新と同じ時期です。英仏らのように植民地経営に乗り出したいのですが、もう残っているところがあまりない。ドイツは山東半島に進出を企てていましたから、対岸・目と鼻の先の遼東半島日本領有は困ったというわけです。

ロシアは三国干渉に応じた清国に対し、お礼にシベリア鉄道を満州経由にしました。このとき露清密約が締結(1896)されてます。この密約は日本に対する軍事同盟の性格を持っていました。

この頃、自国大陸にフロンティアがなくなったアメリカは、中米と太平洋に進出しハワイ王国を併合・スペインと戦争してフィリピンとグアムを略取しました。(これに日本が口出ししなかったのは、のちの桂-タフト協定につながるなにかがあったのだと思います。)

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361~362頁本文
【大韓帝国】
日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清国に認めさせ、‘利益線’たる朝鮮から清国の勢力を排除することに成功したが、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に゛勢力を伸ばし、1895(明治28)年7月、親露派政権がつくられた(親清だった閔妃政権のことです。清国が負けたのでロシアに鞍替えしました)

同年10月、日本公使・三浦梧楼(みうらごろう 1846~1926)や日本の軍人・壮士らが中心となり、大院君を擁立してクーデターを強行し、閔妃政権を打倒して親日派政権を樹立させた(閔妃殺害事件)。(大院君って閔妃を貶めるためなら後ろ盾はどうでもいいらしい)
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しかし、翌年2月、みたび政変がおこって朝鮮国王はロシア公使館に移り(露館播遷)、ロシアを後ろ盾とした政権が発足した。(朝鮮国王というのは高宗のこと・大院君の子で、高宗の妃が閔妃です。画像の人物)

その後、日露両国は山形-ロバノフ協定、西-ローゼン協定などを結んで朝鮮(韓国①)における利害の調整をはかったが、韓国を勢力下に収めようとする日本の政策は達成されず、韓国問題をめぐる日露の対立はしだいに深まった。

362頁・欄外
①朝鮮は1897(明治30)年、国号を大韓帝国と改めた。

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桂-タフト山形-ロバノフ西-ローゼン、はすべて人の名前です。交渉にあたった宰相の名前です。クリックで説明文にとびます。

ドイツは1898年に宣教師殺害事件を口実に山東半島の青島(チンタオ)を租借します。これに対抗する形でロシアは日本から掠め取ったような遼東半島の旅順・大連を租借します。念願の不凍港です。ドイツとロシアに対抗してイギリスが九竜と威海衛(いかいえい・山東半島の東端)を租借します。

もう一触即発状態でした。威海衛(いかいえい)は日清戦争の戦闘で有名な場所です。
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この状態からドイツだけハバにされたのが第1次世界大戦の東アジアでの勢力図になります。
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362~363頁本文
【日英同盟】
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府内には、2つの意見が生じた。

1つは伊藤博文井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認める代わりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。

これに対し、桂太郎首相・小室寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた。

勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず、‘光栄ある孤立’を保ってきたイギリスではあったが、当時バルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。

協約の内容は、
1)清国と韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国、およびイギリスの清国、における政治的・経済的利益を互いに擁護し、

2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、

3)さらに2国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる。

というものだった。
(後略)
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3)は、ロシアに加担する国があったら「おれら英国紳士が出てって相手するよっ」という暗黙の脅しです。露清の密約なんぞ英国諜報部につつぬけでした。


  ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像の引用元
1枚目→http://heiwa.yomitan.jp/4/3206.html
2枚目→ウイキペディアより
3枚目→http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-date-20110103.html

もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。

wikipedia.org/wiki/三国干渉
wikipedia.org/wiki/大韓帝国
wikipedia.org/wiki/日英同盟


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