朝鮮半島中世史研究 ④~「元寇と三別抄」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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148頁本文
(12世紀末‘1100年代’の朝鮮半島・高麗王朝では)
、契丹・女真が北辺に侵入を始め、13世紀半ばには連年のようにモンゴルが侵入をくりかえした。

この窮状を打開できない雀氏政権への不満は高まり、1258年、クーデターで雀氏が倒されると、江華島で応戦していた高麗国王はモンゴルに屈服した。

高麗はモンゴルの属国となり、朝鮮本土にはダルガヂ(達魯花赤)が、派遣されて民衆は苦しめられた。しかし、高麗軍の一部である三別抄(さんべつしょう)は、朝鮮半島南部の海岸地帯を転戦し、モンゴルに最後まで抵抗した。

148頁参考・三別抄(さんべつしょう)の乱
別抄(べつしょう)とは、臨時編成の精鋭部隊の意味で、武臣政権をたてた崔氏政権によってのちに常備軍とされた。

左夜別抄・右夜別抄・神義別抄の3隊からなり、これを総称して三別抄という。

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モンゴルが高麗に侵入すると、国王や崔氏政権とともに江華島を拠点として防戦に努め、1270年、元宗(高麗国王)が降伏して降伏して開城(高麗の首都-ケソン)に移ったのちも抗戦を続けた。

元宗(高麗国王)による解散令を拒否した三別抄は、王族の王温(おうおん)を擁立して、新たに珍島を本拠地に抵抗を続け、1271年、モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻略すると、耽羅国(済州島)に移って朝鮮南岸を脅かした。

1273年、1万2000の元・高麗連合軍の耽羅攻略によって平定されたが、翌1274年に第1回元寇(文永の役)があったことから、三別抄の乱がフビライ=ハンの日本遠征を遅らせたといわれている。

画像はこちらのサイトから拝借しました。http://dennoubunko.iobb.net/blogn-rekisi
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珍島という地名は2014年にフェリーの事故で有名になりましたね。
耽羅国(済州島)はずっと朝鮮王朝に内属していましたが、のちに李氏朝鮮に完全併合されました。

「三別抄の乱がフビライ=ハンの日本遠征を遅らせた」、それはそうなんだろうけど、三別抄の人たちは、日本のために日本侵攻を遅らせる意図はなかったでしょう。ただ昔の百済のように鎌倉幕府に救援を求めて共同してモンゴルを撃退するよう要請した共闘を呼びかけたという事実はあります。

自分たちで王族をかつぎだしたわけですから、自分たちが政権を取る独立国家を建国したかったのかもしれません。滅ぼされたのちの末裔が琉球に移ったという説があり、研究されている方もいらっしゃいます。ウィキペディアにも記載されています。↓
  wikipedia.org/wiki/三別抄
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「三別抄の乱」については、『詳説日本史研究』にも参考という形で記載されています。


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 
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149頁参考【元寇の国際的背景】
元寇は鎌倉武士の勇敢な戦闘と暴風雨によって退けられたが、モンゴルが日本征服を断念した背景には、高麗をはじめとするアジア諸国の抵抗があったことを忘れてはならない。

モンゴルは1231年から58年まで、6回にわたって高麗へ侵攻し、激しい抵抗を排除して、ついに高麗を服属させた。

この時点でモンゴルは日本への遠征に本格的に着手した。しかし1269年、高麗の内部で反モンゴル派のクーデターがおこり、高麗軍の一部である三別抄が南朝鮮の農民と連携して3年にわたって抵抗を続けた。

このためモンゴルの征日計画は大幅に遅れ、1273年の三別抄の乱の終結を待って、文永の役が始まった。また、続く弘安の役は1279年の南宋の滅亡をふまえて実施された。

日本に来襲したモンゴル軍のなかには、モンゴルに降伏した高麗人、南宋の江南の人々が多く含まれていた。彼らの士気は当然高くなく、人種の異なる指揮官たちの間では内部抗争が絶えなかった。このことが戦闘におおきな影響を与えた。

フビライは第3回の遠征を構想していたが、モンゴルの支配に対する江南地方での中国民衆の反乱、またコーチ(現在のベトナム)の反抗があって、実現しなかった。元寇はこのように、アジアの動向のなかで理解すべき事件だったのである。
 
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高麗の正史である『高麗史』には忠烈王(元宗の子)がフビライに日本侵攻を働きかけたとの記述がありますが、フビライにしてみれば『属国の王のお前に言われるまでもない!』ってところでしょうか?

フビライの日本征服の意はそれ以前からあり、その意に従って、属国の王(元宗)と立太子(忠烈王)が兵員や軍船や基地などの協力をしただけのことです。そして自分たちの王位と王権を強固なモノにしたかっただけです。

ちなみに忠烈王(元宗の子)は、フビライの皇女をのぞんで后にもらってます(高麗人の前妃が居てのちにいかにも韓ドラっぽい大事件にw)。


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   wikipedia.org/wiki/忠烈王


ややこしいから、忠烈王の父、元宗(高麗王)についても貼っておきます。
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   wikipedia.org/wiki/元宗_(高麗王)






元寇について、フビライと鎌倉幕府の動きを、時系列にして簡単にまとめときます。



1259年 フビライは高麗を服属させる。元宗を傀儡として高麗王につける

1268年 フビライは高麗を仲介し日本に国書を送り、朝貢を求める。鎌倉がたはシカト(返事もしない)
1269年 フビライは再び国書をおくり、朝貢をもとめる。朝廷は返書を送ることを提案したが、鎌倉がたはシカト
1270年 三別抄の乱がおこる。

1271年 フビライは国号を中国風に元と改める。
1271年 フビライは国書をもった使者を九州に上陸させ、入貢をつよくせまった。鎌倉がたは国書黙殺
    また同年6月、珍島三別抄政権が日本に救援を求める。朝廷も幕府もシカト

1273年 フビライは三別抄の乱を鎮圧・平定
1274年 10月、文永の役 (1回目の元寇)
1275年 フビライは服属を勧告する使者を日本におくる。鎌倉がたは使者一行5人を斬り捨てる

1279年 フビライは南宋を滅ぼし、中華大陸全土を統一支配する。
1281年 6月、弘安の役  (2回目の元寇)




元寇で、対馬の守護代宗資国が討たれ、対馬・壱岐・の島民が虐殺・凌辱されたことに関しては詳しく描きません。元軍は元(モンゴル)・宋の遺人(漢民族)・属国-高麗の連合軍でした。


高麗目線でもっと詳しくまとめて調べたい人はこちらで ↓
  wikipedia.org/wiki/モンゴルの高麗侵攻

異民族モンゴルに最期まで反旗を翻した三別抄ですが、朝鮮半島では人気も知名度も低いようです。

高麗の国士として、反逆・逆族のヒーローとして、時代に翻弄された悲劇のヒーローとして、人気出そうなものなんだけど、朝鮮人の英雄嗜好はよく分からない。

李舜臣や安重根よりよほど英雄らしいと思うのですが、彼らの嗜好では、英雄たる者は抗日の志士でないとダメらしいです。



~おしまい~


半島史目次)
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

⑤~「前期倭寇に苦しむ高麗王朝」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11557305522.html