朝鮮半島中世史研究 ③~「中華統一モンゴル王朝-元による高麗侵攻」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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140~143頁本文

チンギス=ハン(成吉思汗・太祖・位1206~27)は、(中略) 1209年、黄河上流の西夏を屈伏させ、1218年には中央アジアの西遼を滅ぼしてイスラム世界と国境を接することになった。

(中略・西夏は1227年にチンギス=ハンに滅ぼされます)

オゴタイ=ハン(太宗・位1229~41)は、チンギス=ハンの始めた征服事業を継承し三方から「」を攻略し、1234年、首都汴京(開封)を占領したのち、南宋と共同して「金」を滅ぼした。

(中略)

フビライ=ハン(世祖・位1260~94)は、即位前に大理国(雲南)や吐蕃(チベット)を攻略し、さらに淮水以北の華北の統治をまかされ、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1264年、カラコラムから大都(現在の北京)に遷都し、1271年には国号を中国風にと定めた。

(中略)

その間も南宋への侵攻は続けられ、(中略)1279年(中略)南宋は滅亡した。こうして元による中国全土の支配は完成したが、異民族によって中国全土が支配されたのはこれが初めてであった。

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画像はこちらのサイトから拝領いたしました。↓
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b07_mongol/mongol.html
 
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モンゴル帝国はアジアからヨーロッパへユーラシア大陸をまたぐような広大でかつ強大な帝国になりました。現在の、ホルムズ海峡(イラン)・バグダッド(イラク)・アンカラ(トルコ)・キエフ(ロシア)・モスクワ(ロシア)などもモンゴルの支配下でした。

旧ソ連では、この時代のモンゴル統治を「タタールの軛(くびき)」と呼び、ロシアの発展を250年にわたって阻害したとされていました。実際にはモンゴルによって政治・経済が発展したので真逆です。

詳しくは → wikipedia.org/wiki/タタールのくびき

中華を統一した異民族はモンゴルが最初ですが、後にツングース系女真族の「清(1616~1912)」の例もあります。モンゴル以前にも華北(洛陽・長安・北京を含む重要地帯~中原ともいう)地帯はたびたび異民族の王朝が建国されまして、中華民族(漢民族)はその支配を受けています。

欧州大陸にしろ中華大陸にしろ朝鮮半島にしろ、陸続きで国境を接していると異民族との興亡の歴史が刻まれるので、主権や領土に関する強い意識は否が応でも蓄積されるのでしょう。日本が異民族と交戦したのは白村江・元寇・豊臣秀吉の朝鮮出兵・幕末・明治以降と少ないです。

日本国と日本人は英国の外交に学ぼう。

「日本は侵略戦争したニダアルヨ」とは仰らないでくださいね。「国家間の戦争」が「平和と人道に対する罪」として国連憲章第7章で裁かれるようになったのは、第二次世界大戦後のことです。

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143頁本文

元の領土は、フビライ=ハンのときに最大となり、モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし、チベット・高麗を属国とした。さらに日本征服や南海への遠征をくわだて、日本をはじめベトナム・カンボジア・ミャンマー・ジャワに侵攻した。

(中略)

日本遠征は、鎌倉武士の抵抗と暴風雨のため失敗した。ベトナムの陳朝への3回にわたる遠征は、いったんは首都ハノイを占領したものの民衆の激しい抵抗によって撃退された。また1292年のジャワ遠征でも、元軍は大損害をこうむり撃退された。
 
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なんかフビライの元帝国ってさ、いまの中華人民共和国に似てるね。

日本征服や南海への遠征をくわだて、日本をはじめベトナム・カンボジア・ミャンマー・ジャワに侵攻した。

時代が違うから侵攻のやりかたは異なるけど・・・ほぼ地域はいっしょやん!!

モンゴルは地上戦では敗北したけど、海洋輸送ルートなどの海洋権益の確保と言う意味では成功しています。また樺太にも遠征して、先住民のアイヌを排除したりしています。排除というのはおそらく虐殺・略奪を含んでいます。

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143頁本文
(高麗では)、このころから契丹・女真が北辺に侵入を始め、13世紀半ばには連年のようにモンゴルが侵入をくりかえした。

この窮状を打開できない雀氏政権への不満は高まり、1258年、クーデターで雀氏が倒されると、江華島で応戦していた高麗国王はモンゴルに屈服した。

高麗はモンゴルの属国となり、朝鮮本土にはダルガヂ(達魯花赤)が、派遣されて民衆は苦しめられた。しかし、高麗軍の一部である三別抄(さんべつしょう)は、朝鮮半島南部の海岸地帯を転戦し、モンゴルに最後まで抵抗した。
 
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雀氏政権というのは崔氏という武臣による政権統治です。この頃には王権による親政ではなくなっていました。

ダルガヂ(達魯花赤)というのは統治官の総称で固有名詞ではありません。役職名・官職名です。モンゴルが高麗を占領統治するに当たって72人配置されたと記録があります。(達魯花赤)はモンゴル言語発音に当てはめた「当て字」だと思われます。

三別抄(さんべつしょう)については次回書きます。これも固有名詞ではなく高麗軍の部隊名です。


さいごに高麗の雀氏政権が異民族の侵攻に対して脅えていた様子が分かる事例を紹介しておきましょう。韓国の世界遺産に、伽耶山海印寺に保存されている仏教聖典が書かれた木版から刷られた経典「高麗八萬大蔵経の版木が保管されている大蔵経板殿」があります。

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ウイキペディアの文章を切り貼りする形で、説明させていただきます。
ja.wikipedia.org/wiki/高麗八萬大蔵経

 
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1011年(高麗顕宗2年)に契丹が高麗に攻め込んできた。国家防衛を祈願するために、蜀版の開宝大蔵経(971年~983年)をもとに最初の大蔵経の製作が始まったといわれている。

その後、契丹は退却した。版木は大邱の符仁寺に移された。


1236年(高麗高宗20年)にモンゴルが高麗に侵攻。符仁寺にあった版木は戦災で焼失した。江華島に避難していた高宗が再び、大蔵経の製作を指示した。

巨済島や南海から白樺(桜とする資料あり)の材木を運びこみ、15年の歳月をかけて八万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、現在に伝わる高麗八萬大蔵経である。


 
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契丹やモンゴルの勢力侵攻に対して、仏にすがるしかなかった、高麗の崔氏政権の脆弱な実情がよく分かります。高麗にも武官は居たし軍隊もあったのでしょうが、強い外圧に対しては為すすべもなく朝貢外交に頼らざるを得なかったようです。


~おしまい~

半島史目次)
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

④~「元寇と三別抄」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11551361801.html