朝鮮半島中世史研究 ⑤~「前期倭寇に苦しむ高麗王朝」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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179頁本文

日本と元の間には正式な国交はなかったが、私貿易は依然としてさかんであった。元と戦った鎌倉幕府も、建長寺再建の費用を得るために、1325(正中2)年に建長寺船を派遣している。

足利尊氏はこれにならい、後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺造営を目的として、1392(康永元)年から数回の天竜寺船を派遣した。

このころ、倭寇と呼ばれた日本人を中心とする海賊集団が猛威をふるっていた。倭寇の主要な根拠地は対馬・壱岐・肥前松浦地方などで、規模は船2~3隻のものから数百隻に及ぶ組織的なものまでさまざまであった。


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「私貿易は依然としてさかんであった」というのは、「菅原道真が遣唐使廃止(894年)後に平清盛(1118~81年)が南宋との間に日宋貿易をやっていましたが、その後は交易ではなく私貿易でした」ということを著しています。

建長寺船を派遣してまで再建費用を得ようとした建長寺というのは鎌倉にある禅宗の寺で、地震と火災で失われていました。公式サイト→http://www.kenchoji.com/

後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺というのは、京都市右京区嵯峨野にあるあの天龍寺です。天井画の雲龍図が有名ですね。公式サイト→http://www.tenryuji.com/index.html

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前期倭寇の時期は、日本・朝鮮半島・中華大陸で政治的が動乱があって非常にややこしいので、年表にして時系列を簡単に整理しておきます。教科書でもバラバラに記述してあって、ややこしいことこの上ありません。

1281年 弘安の役(2回目のほうの元寇)
1333年 鎌倉幕府の滅亡・建武の新政
1336年 室町幕府の成立・南北朝時代
1338年 足利尊氏(初代将軍)が征夷大将軍に任じられる

1351年 中華大陸で、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)がおこる
1368年 中華大陸で、江南に明を建国した朱元璋が元(モンゴル帝国)を北方に追いやる
1388年 朝鮮半島で、李成桂が挙兵、クーデターを起こす

1392年 足利義満(三代将軍)により南北朝の合一がされる
1392年 朝鮮半島で、高麗が滅亡し、李成桂が李氏朝鮮を興す


では、教科書からの引用に戻ります。これで前期倭寇が出現してきた背景がズバリ分かります。
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179頁本文

倭寇は朝鮮半島、中国大陸沿岸を荒らし回り、人々を捕虜にし、略奪を行った。困惑した高麗は日本に使者を送って倭寇の禁止を求めたが、当時九州地方は戦乱の渦中にあり、取り締まりの成果はあがらなかった。

この14世紀の倭寇を前期倭寇と呼ぶが、その主な侵略の対象は朝鮮半島で、記録に明示されたものだけでも400件に及ぶ襲撃があった。高麗が衰亡した一因は、倭寇にあったと考えられている。

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ずいぶんと偏向した日本史教科書の書きっぷりですが、冷静に考察していきましょう。中世史なのに『侵略』って言葉を使っていることで、この部分を書いた先生がどんなタイプの人かお分かりいただけるでしょう。

「当時九州地方は戦乱の渦中にあり」というのは、年表で記した日本国内の動乱を意味しています。鎌倉幕府打倒のことなのか?南北朝の対立なのか?は判別できません。日本側も元寇で攻めてきた高麗王朝の求めに応ずるというのは、気乗りのしない話だったでしょう。

考察点①「前期倭寇とはどんな人たちだったか?」
対馬・壱岐・肥前松浦地方などに住んでいた人たちです。元寇の主戦場になった地域です。生活の基盤が破壊されてしまったので、鎌倉幕府政権の戸籍からのがれて流民・難民となった人たちです。土地を捨てて、租税からも兵役からも逃れました。海賊は自由です。

世の中が乱れると流民・難民が増える。このような例は歴史教科書に山ほど載っています。


考察点②「なぜ侵略の対象が朝鮮半島だったか?」
まず一点目は近いから。二点目は日本国内だと取り締まられやすいから。三点目は、元寇の兵士たちは高麗軍が主力だったので、積年の恨みつらみがたまっていたから。だと思いますよ。奪われていた拉致家族を取り返したという例もあるそうです。


考察点③「捕虜になった人たちはどうなったのか?」
簡単に一言で言うと、『仲間になった』じゃないでしょうかね?虐殺されたとか惨殺されたとかは書いてないですし。あとて引用しますが、後期倭寇(16世紀・1500年代・戦国時代)になると日本人倭寇は3割しかいなかったそうですよ。

残りは中国人・朝鮮人・ポルトガル人。

朝鮮半島も中華大陸も動乱期でしたから、生活苦から倭寇(海賊)になってしまう人たちは、朝鮮半島にも中華大陸沿岸部にもたくさんいたんじゃないかということです。


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     画像はこちらのサイトから拝借してまいりました→http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/

もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでどうぞ→wikipedia.org/wiki/倭寇
専門家の先生方が熱心に研究されているようです。倭寇の構成員について、とか。


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179頁本文

明は歴代の王朝にならい、中華を中心とする国際秩序の構築を目指して通交の開始を近隣諸国に呼びかけた。日本にも使者が来航し、合わせて倭寇の禁止が求められた。

国内の戦乱を終息させた足利義満は積極的に応じて倭寇の鎮圧を九州探題に命じ、1401(応永8)年に僧侶祖阿(そあ-生没年不詳)と博多商人肥冨(こいつみ-生没年不詳)とを遣わして正式な国交を開いた。

明は日本を属国とみなし、朝貢の形式をとるように要求した。義満は「日本国王臣-源(みなもと)」と名乗り、明の年号を使い、朝貢貿易が始まった。

遣明船(けんみんせん)は明から交付された勘合という標章の持参を義務付けられた。これにより、日明貿易を勘合貿易という。

(後略)

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朝貢の形を取って明に臣礼して貿易する。ということは例の【三跪九叩頭礼】を日本から訪問した使者が行っていたということになります。くわしくは過去記事をどうぞ↓

そりゃ英国人もキレるよ!三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい)

四代将軍の義持は明に臣下の礼をとることを嫌って貿易を中止したりしています。のちに六代将軍の義教が再開しています。勘合貿易は朝貢の形式をとったため、滞在費・運搬費などは全て主人である明側の負担でして、日本側はこれでボロ儲けしました。

貿易には室町幕府だけではなく、有力守護大名や有力寺社勢力も参加してました。みんなして「名を捨てて実を獲り」大儲けしたわけです。三代将軍足利義満はその儲けでこんな豪奢な寺をぶっ建てちゃったりしました。







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  画像はこちらのサイトから →http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html


では【後期倭寇】について参考という形で教科書の記述を引用しておきましょう。
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詳説日本史研究180頁本文

勘合貿易の中断後、再び倭寇の活動が盛んになった。16世紀に展開されたこの倭寇は後期倭寇と呼ばれ、主に東シナ海、南洋方面にみられた。ただし本当の日本人は3割ほどで、中国人やポルトガル人が多かった。

彼らは日本の銀と中国の生糸の交易を行いながら、海賊として行動した。

なかでも有名な頭目(とうもく)は、平戸・五島地方に居を構えて数百隻の船団を指揮した王直(おうちょく-?~1559)という明人(みんじん)である。彼は王と自称し、大名たちとも交渉をもった。

(後略)

詳説世界史研究292頁人物【王直】
安徽省徽州県出身の王直は、初め塩商であったが、事業に失敗すると、1540年に仲間とともに日本や南海方面を相手に密貿易をおこない巨額の富を築いた。

1543年に種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、日本に鉄砲を伝えたが、そのとき日本側と筆談したのが王直であったという。

しかし彼が根拠地としている舟山列島が、倭寇の取り締まりで攻撃をうけると、部下を率いて江蘇省・浙江省地域の沿岸部を襲い、後期倭寇の中心的人物となった。

(後略)

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種子島に伝わった【鉄砲伝来】の陰に、後期倭寇の中国人首領(明人)が重要な役割を演じていたのですね。

捕捉しておきますが、まだ倭寇ではなかった王直を取り締まって攻撃したのは、日本側ではなく明の側ですから。

詳しくは→ wikipedia.org/wiki/王直



【倭寇】って名称さ・・・・、濡れ衣じゃね? (;一_一)
語源は高句麗の王-広開土王の碑文に書いてある記載だしさ

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詳しくは → wikipedia.org/wiki/広開土王碑


~おしまい~


半島史目次)
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

⑥~「李成桂の李氏朝鮮建国と両班社会の形成」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11560834815.html