朝鮮半島古代史研究③~「高句麗と三韓」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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116頁本文
五胡の諸民族による国家形成にともない中国が分裂状態になったころ、周辺の諸地域でも国家形成が進んだ。

紀元前後頃中国東北地方の南部におこったツングース系の高句麗は、3世紀半ばに魏によって遼東の公孫氏が滅ぼされると、これに乗じて朝鮮半島の北部一帯に勢力をのばし、313年には前漢以来続いてきた中国勢力の拠点である楽浪郡を滅ぼした。

4世紀後半の広開土王(こうかいどおう)(=好太王,位391~412)のときから隆盛期を迎え、その子の長寿王(位412~490)のときには都を鴨緑江(おうりょくこう)中流の丸都城(がんとじょう)から大同江(だいどうこう)畔の平壌に移し、遼東半島を領有して強大になった。

高句麗は北魏に朝貢するとともに南朝とも通交した。

また、半島の南部では、韓族が馬韓・弁韓・辰韓の三韓に分かれて小国家群をつくっていたが、ここにも統一の機運がおよび、4世紀半ばには半島西南部の馬韓の地に百済が、東南部の辰韓の地に新羅の2国が成立し、朝鮮半島は三国時代にはいった。

三国はそれぞれ北朝や南朝の諸政権と通交を結び、これらの権威をかりながら7世紀まで抗争を続けた。

また、弁韓(加羅or伽耶)の地でも小国家の連合がすすんだとみられるが、やがて百済と新羅の支配下にはいった。

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この時代の中華大陸の分裂状態を簡単に書いときます。

魏・呉・蜀のいわゆる中華の三国時代ののち、「孔明の罠だ」で有名な司馬懿仲達の孫=司馬炎が魏を引継ぎ皇帝となり、蜀と呉を滅ぼし、(西晋,265~316)を建国、中華大陸を統一します。魏志倭人伝の作者はこの晋(西晋)の陳寿(ちんじゅ)という官僚(学者)です。

その後、北方のモンゴル系異民族(北狄 ほくてき)たちの活動が非常に強大になって、五胡(ごこ)といわれる北方異民族たちがつきつぎに中華大陸で政権を打ち立てて興亡します。対する漢民族(中華民族)のほうも複数の政権(十六国)がつぎつぎに興亡します。

これを五胡十六国時代(316~439年頃)といいます。

またその後、中華大陸北部(華北)は鮮卑族が建てた北魏(386~534)によって統一され(439年)、中華大陸南部(江南)は、五胡十六国に追われた晋(西晋)が移転して(東晋)を成立させて以降(317年)、漢民族の政権国家が、宋・斉・梁・陳と続きます。

これを南北朝時代といいます。江南の王朝(南朝)は孫権のを含め六朝といいます。

中華(漢民族)な立場からは、大混乱期の五胡十六国時代をハブって魏晋南北朝時代と言っています。漢化政策を徹底した鮮卑族北魏(北朝)は認めたみたい。曹操のと鮮卑族の北魏(北朝の北魏)はまったく違う王朝です。

簡単に書くとはいえ、混乱期をまとめて書くのは難しいです。でも中華の状況をおおまかにでも把握しておかないと朝鮮半島のことは語れないから仕方ありません。

3世紀(200~299年頃)、204年 帯方郡の設置 238年 楽浪郡・帯方郡を魏が奪還 239年 卑弥呼の朝貢
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4世紀(300~399年頃)、高句麗が南下して楽浪郡占拠(313年)、平壌へ遷都(427年)
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「前燕」は鮮卑族の国家、「後趙」は羯族の国家、五胡の諸民族で漢民族(中華民族)の国家ではありません。

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5世紀(400~499年頃)、朝鮮半島の三国時代。弁韓諸国→伽耶(加羅)諸国は連合国家ではありません。
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   「北魏」は鮮卑族の国家、「宋」は漢民族(中華民族)の国家です。


高句麗・百済・新羅・倭は、676年の新羅による朝鮮半島統一国家の成立まで、激しい覇権抗争を続けることになります。新羅は強力な中華統一王朝の(618~907年)と同盟を結んで高句麗・百済を滅ぼしたので、統一新羅は成立した最初から従属国でした。

上記「詳説世界史研究」の引用から、気になる文章を抜き書きして語頭語尾を修正します。

半島西南部の馬韓の地に百済が成立、
半島東南部の辰韓の地に新羅が成立、


つまり、百済にしても新羅にしても、この5世紀頃(400年代)に古代国家を成立させたのは「その土地の土着の人たち=朝鮮半島南部にもともと住んでた人たち」ではなかった、ということを暗に示しています。

朝鮮半島南部の韓族の住む地域(馬韓・弁韓・辰韓)の小国家群を連合国家にたばねて、古代王朝国家を成立させた原動力は、土着の人たちより文化レベルの高い移動してきた異民族たちでした。これは倭(日本)における渡来人たちにも当てはまります。

古代国家成立に関与した異民族の候補 ↓ (民族移動もしくは亡命)

①中華大陸で興亡した漢民族、興亡に敗れた一族
②五胡などのモンゴル系北方異民族(北狄)、興亡に敗れた一族
③大陸東北部(のちの満州)のツングース系東方異民族(東夷)、新天地を求めた者たち
④上記①~③の者たちの争いの中で、興亡に敗れた一族(亡命人=落人)


1600年も前の民族や古代国家を、現代の民族や現代の国家に結び付けて考えるのは、ナンセンスです。試しにほぼ同時代のヨーロッパの地図を添付します。 ↓

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  ちょうど世界史の授業では外すことのできない「ゲルマン民族の大移動」の時代になります。


高句麗
国名は漢帝国が設置した玄菟郡の高句驪県に由来する。国を興したのは大陸東北部のツングース系の民族である。一番上の引用図にある濊貊・夫余・沃沮も同系統の民族らしい。

韓国ドラマで有名な「朱蒙」(チュモン-在位紀元前37~19年)が建国者とされているが、少なくともこの人物の前半生記は架空の神話である。現代の韓国人・朝鮮人との関係は不明。たぶん無いと思うよ。

もともとは鴨緑江という現在の中朝国境の川の流域で国が興り、前期の都である丸都城や有名な広開土王碑はこの鴨緑江流域にある。丸都城跡(何も残ってないが)と広開土王碑の現在の所在は中華人民共和国吉林省集安市である。

もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでお勉強できます。 wikipedia.org/wiki/高句麗

馬韓52カ国 → 百済
国名の由来は不明だが、国を興したのは中華大陸東北部のツングース系の民族-扶余族-である。高句麗にそれまでの都・漢城(現在のソウル市)を陥落させされ(475年)、南に移した都-泗沘-の場所を「扶余」と命名した。(538年)

なぜかこの百済の建国神話にも高句麗の始祖である朱蒙の神話が採用されている。~建国者の温祚が朱蒙の子~、神話なので諸話あり事実認定されていない。朱蒙と現代の韓国人・朝鮮人との関係はぜったいに無いと思う。

もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでお勉強できます。 wikipedia.org/wiki/百済 

辰韓12カ国 → 新羅
辰韓の地域諸国の十二国の中に斯蘆国があった。新羅は、斯蘆国が発展して基盤となって周辺の小国を併せていき、国家の態をなしたものと見られている。都は「金城」(現在の慶尚北道慶州市)にあった。

三国の中でいちばん、亡命人の力を借りて土着民が建てた国家っぽい雰囲気がする。

もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでお勉強できます。 wikipedia.org/wiki/新羅

この記事の画像はすべてウイキペディアから引用しました。



半島史目次)http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html
④~「伽耶諸国の鉄資源」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11351775602.html