朝鮮半島古代史研究②~ 「楽浪郡から帯方郡を設置」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

 Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
96頁本文
また、前漢以来、倭人は朝鮮におかれていた楽浪郡(らくろうぐん)とのあいだを往来していたが、後漢のはじめには、北九州にあった奴国(なのくに)の使者が洛陽に赴き、光武帝から印綬(いんじゅ)<漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)>を与えられた(西暦57)。
た。


96頁囲み記事
1784年(江戸時代)、北九州の博多にある志賀島(福岡市)で、農民の甚兵衛が田の用水路をなおしていたとき、金印を発見した。甚兵衛は庄屋と相談して藩主の黒田家に届けでた。

その印面には「漢委奴國王印」と彫られており、光武帝によって奴国王に与えられたと『後漢書』に記されている印綬(いんじゅ)であると考えられている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「詳説世界史研究」で朝鮮半島に関する記述を追っていくと次にこの記事がでてきます。ほぼ日本史の記事やん。

そして次の朝鮮半島の記事になりますと、116頁まで跳びまして、まとめて朝鮮半島古代史を片付けにかかります。

『朝鮮と日本』という小見出しが付いていて、いっしょくたに片付けられています。跳び跳びで省略も多く、一気に時代がすすみます。時系列もクチャクチャで非常に分かりにくいので、そこに至るまでの経緯を突っ込んで調べていきます。


楽浪郡(後漢の時代)

前漢(紀元前220~西暦8)は、外戚王莽によって倒されます。王莽(8~23年)という自らが始祖の王朝を建てますが、ドが付くほどのアホ政治だったので間もなく赤眉の乱(18~27年)が起き、王莽は殺されて(23年)、中華全土が分裂して乱れます。

まもなく前漢の一族であった劉秀(帝位についたのち光武帝と改名)が、漢(後漢)を復興し(25年)、長安から洛陽に都をうつし(25年)、赤眉の乱を鎮圧(27年)しました。その後、後漢の中華統一は184年の黄巾の乱勃発まで続きます。

この時代、直轄地である楽浪郡がどうなっていたかというと、ほぼお変わりありませんでした。王莽光武帝後漢も、朝鮮半島の楽浪郡は直轄地としてガッチリ押さえていたんです。新末後漢初には小さい反乱もあったみたいですが・・・。

倭の使節(奴国の使節)が赴いたのは、この後漢の楽浪郡であり且つ後漢の都の洛陽でした。金印とやらをくれたのも後漢の光武帝です。

金印↓
$Egihson,s BLOG
$Egihson,s BLOG
もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでお勉強できます。wikipedia.org/wiki/漢委奴国王

農民の甚兵衛さんも庄屋さんも黒田藩(大名)もみんなして正直者だったんですね。
誰もネコババして鋳潰してやろうとはしなかったみたいですから。日本人偉いぞ。




詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24頁引用図の原漢文-読み下し文


「後漢書」 東夷伝
建武中原二年②、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使い自らを大夫と称す。
倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

安楽の永初元年④、倭の国王帥升等、生口⑤百六十人を献じ、請見を願ふ。

桓霊の間⑥、倭国大いに乱れ、更相攻伐して暦年主なし。

   ②西暦57年。④西暦107年。⑤生きている人、奴隷。⑥桓帝と霊帝の頃=西暦147~189年の間。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前段が志賀の島で発見された金印の記述です。中段に拠りますと、また別の倭王が交渉を持ったようです。後段に拠ると、後漢の末期には倭の国はたいへん乱れて王は不在であったようです。


楽浪郡から帯方郡Born!(後漢~三国時代)

黄巾の乱勃発(西暦184)以後、中華大陸は乱れて三国時代へ移行していきます。後漢王朝の皇帝は220年まで続きますが傀儡でした。220年に曹操の子である曹丕が皇帝の位を継ぎ、後漢が滅んで(220~265)が建国します。

中央集権体制が緩むと地方分権が盛んになるのは歴史上の常でして、ほぼ安定していた楽浪郡(らくろうぐん)でも大きな動きが出てきます。

遼東郡の太守(郡知事みたいなもん)だった公孫氏の一族が、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、楽浪郡を支配下に置いたのです。(189年)

公孫氏の一族は勢いぶっこいちゃって、楽浪郡の南部に勢力をのばし、土着の住民を討ち、開墾もし、帯方郡(たいほうぐん)という新しい郡を設置します。(204年)「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」という記録が、 『三国志』魏書東夷伝-韓の条に残っています。

その後、公孫氏の一族は(220~265)によって滅ぼされ、楽浪郡帯方郡の直轄領すなわち魏の領土になります。 (238年) この年に丁度、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に朝貢使節を送っています。

もっと詳しく知りたい方はウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/帯方郡
wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝


$Egihson,s BLOG


帯方郡の郡治(役所の建物)がどこにあったか諸説あるようですが、郡の領域としては江華湾沿岸部の肥沃な平野地帯だったのでしょう。韓江流域地域(現在のソウル・仁川)も含まれていたはずです。

いうまでもなく公孫氏の一族は大陸系の民族であり、朝鮮半島北西部に元から住んでいた民族ではありません。日本の歴史教科書には記載されていませんが引用します。↓

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『三国志』魏書東夷伝-韓の条

健安中①、公孫康は屯有県②以南の荒れ地を分かちて、帯方郡となす。
公孫摸、張敞らをつかわし、遣民③を収集し、兵を興して韓濊④を討つ。
舊民⑤は稍に出ず。この後、倭韓は遂に帯方に属す。
   
①西暦196~220年。②楽浪郡に属する県。③楽浪郡にもとから住んでいた人。④韓は朝鮮半島南部の異民族の総称、濊は半島東部異民族(上記引用図参照)。⑤先住民のことらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

卑弥呼と邪馬台国について記載されていることで有名ないわゆる「魏志倭人伝」ですが、正式な名称は中華王朝の歴史書である『三国志』の中の「魏書」の中の「第30巻-烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人の条」です。

上記に引用したいわゆる「魏書東夷伝-韓の条」も同じく「第30巻-烏丸鮮卑東夷伝」に載っている記録です。

上記の引用図と見比べて読んでいただきたいのですが、「魏書」第30巻-烏丸鮮卑東夷伝に出てくる東夷(東方の異民族)とは、夫餘・高句麗・東沃沮・北沃沮・挹婁・濊貊・韓(馬韓・弁韓・辰韓の総称)・倭のことを指します。烏丸と鮮卑は北方の異民族。

これらの東夷な諸国に対して、楽浪郡・帯方郡は中華王朝(前漢→新→後漢→魏)の直轄領です。上記引用図でも中華の領域と東夷の領域は明確に色分けしてありますね。

「後漢書」の東夷伝の記録によれば、後漢末期に大いに乱れていた倭なんですが、「魏書」の東夷伝では、女王卑弥呼の邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合国家があった、となっています。

それならば、同時代の朝鮮半島に跋扈する東夷な国々にも、連合国家が生まれてくるのは歴史的に自然な流れでしょう。こののち、半島の東夷な国々も、小国の連合国家から古代王朝国家へと発展していきます。

中華統一王朝の直轄地であった楽浪郡・帯方郡では、小国の連合国家という過程を踏まずに、この場所に都を置く古代王朝国家が引っ越してきます。高句麗です。

すでに統治システムが完成しており、中華の一部だったため東夷な国々より文化レベルも高かったので、それを魏から奪えばよかったのです。



この記事の画像はすべてウイキペディアから引用しました。



半島史目次) http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html
次の記事)③~「高句麗と三韓」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11272951379.html