朝鮮半島古代史研究①~「衛氏朝鮮から楽浪郡へ」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。

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94頁本文
南方では、秦の滅亡に乗じて自立した南越を征服し(前111)、ベトナム中部にまで領土を広げ、南海など9郡をおいた。

また東北方面では、衛氏朝鮮②を滅ぼして(前108),朝鮮北部に楽浪(らくろう)・新番(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の4郡をおき直轄地とした。


94頁欄外
②前2世紀末に中国から亡命した衛満(えいまん)が朝鮮西北部にたてた国

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「詳説世界史研究」の朝鮮半島に関する記述で、いちばん最初の文章がこれです。

「前漢(紀元前202~西暦8年)」の「武帝(紀元前141~87)」について書かれた部分に掲載されています。これだけではさっぱり分からないので簡単に調べてみました。




衛氏朝鮮


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   ↑ この画像はこちらより拝借いたしました。http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001352.html


中華大陸の戦国時代(紀元前403~221)、戦国の七雄とよばれる群雄割拠のひとつに「燕(えん)」という国がありました。

やがて中華大陸は始皇帝によって統一されます(紀元前221)。「燕」の勢力は遼東半島に封じられます。ほどなくが滅んで(前漢)が統一王朝を建てます(紀元前202)。

(えん)」の末裔である「衛満(えいまん)」は、紀元前195年頃?に朝鮮半島北西部に亡命して国を建国しました。これが「衛氏朝鮮(紀元前195?~108)」です。

前漢(紀元前202~西暦8)」の初代皇帝である「高祖(紀元前247~195)~【項羽と劉邦】の劉邦が帝位について改名~」の施策がイヤで亡命したらしいです。

この建国地の朝鮮半島北西部は、戦国時代の「(えん)」の隣接地でした。いうまでもなく「衛満(えいまん)」は大陸系の民族であり、朝鮮半島北西部に元から住んでいた民族ではありません。

「衛氏朝鮮」以前の「箕子朝鮮(きしちょうせん)」・「檀君朝鮮(だんくんちょうせん)」については、その実在と実態について諸説あり定説がまだありません。現段階では伝説・空想上の捏造国家と言って差し支えないです。

興味が湧いた方はウイキペディアで詳しくお勉強できます。 →wikipedia.org/wiki/衛氏朝鮮


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            ↑ この画像はウイキペディアより拝借いたしました。


楽浪郡(前漢の時代)

楽浪郡(らくろうぐん)については教科書の記載通りでかまわないと思います。中華統一王朝である王朝の直轄地です。漢の領土と言って差し支えないでしょう。

にしてもにしても地方の統治は強力な中央集権体制の郡県制です。上記の画像を見る限り、朝鮮半島の4郡と他の郡との違いが分からない。一部では曖昧にして半島4郡を植民地なんて記述にしてますが違いますね。漢王朝直轄領の領土です。

楽浪郡以外の3郡ですが、行政改革かなんかで楽浪郡と遼東郡に編入されてしまったようです(紀元前82年)。紀元前の僻地のことですから郡の境は明確ではないし、人も住んでなくて利用価値のない痩せた土地は遺棄されたことでしょう。

楽浪郡の郡治は、現在の平壌市付近の大同江流域にあったらしいです。肥沃な平野で港湾としての価値もあり発展したみたいです。

後漢(西暦25~220)の時代になると、楽浪郡にまたあらたな動きがありますが、ややこしくなるのでここでは触れません。

引用した画像を見れば分かりますが、による直接統治は楽浪郡(周辺編入後)までが限界で「朝鮮半島南部には及んでいなかった」というのが、定説になっています。

興味が湧いた方はウイキペディアで詳しくお勉強できます。 →wikipedia.org/wiki/楽浪郡


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。

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24頁本文

『漢書』(前漢の歴史を記したもの)の地理志は、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来り献見す」という、日本に関する最古の記述がある。


24頁引用図の原漢文-読み下し文
夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。
歳時を以て①来り献見すと云ふ。
   ①定期的に。

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この時代の日本列島は弥生時代です。

中華王朝である前漢の支配が朝鮮半島南部におよんでないのであれば、日本列島の西日本・北九州地域と朝鮮半島南部は同じような文化程度だったのではないでしょうか?

倭人が楽浪郡まで定期的に献見してたってことは、倭人は船を操って朝鮮半島へ定期的に渡っていたことになります。とうぜん経済的な交易もしていたことでしょう。同じ文化圏って扱いになりませんか?

献見を受ける楽浪郡の漢王朝役人からしてみれば、韓も倭も同じ東方の野蛮な未開人(東夷)だったに違いありません。

「陸続きの韓と海を隔てた倭は違う!」というのは完全に現代的な視点です。当時は海岸沿いに移動したほうが安全・安心・迷いにくい・だったことでしょう。陸路なんか人跡未踏の荒野山野ばかりです。

上記の地図のような空からの視点という概念は捨てて、古代人の二次元的な視点を想像してみてください。

交易で品を運搬するなら船で海岸沿いに集落に寄港しながら~川も上ったり下ったりしながら~移動したほうが楽チンです。荷を担いで歩かなくていい。陸に径があったにせよ獣道程度だったことでしょう。運搬用の家畜もいたかどうか分からない。


専門に歴史研究されている方からみればどうなのか知らないけど、日本史と世界史の歴史教科書の同時代の記述を読み比べてみると、こんな推論になってしまいました。




半島史目次 http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

次の記事)②~「楽浪郡から帯方郡を設置」
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